『全人類に告ぐ』平成22年6月22日脱稿

はじめに

わたしはキリスト教徒でもなければ、仏教徒でもありません。

日本人全般にあてはまる、いわゆる無神論者ですが、子供の頃から疑問に思っていたことがあります。

先ず、教会に行けば必ず目にするものが、イエス・キリストが十字架に架けられたオブジェです。

キリスト教の教祖が十字架に架けられた姿を祭壇に飾ってあるのを見ても、キリスト教徒たちは胸が痛まないのでしょうか?

無神論者のわたしでも、愛する者が無残な殺され方をしている姿を想像することは避けたいと思います。

況してや、キリスト教徒たちにとって、神の子として尊敬するイエス・キリストのそんな姿を、教会に礼拝に行く度に見る。

彼らの言い分は多分こうでしょう。

『我々全人類の罪を一手にお引き受けになって十字架に架けられたことを未来永劫忘れないための十字架ですよ・・・』

一見納得の説明のように思いますが、子供の頃のわたしは、それでは合点が行きませんでした。

 

話は変わって、

6月2日の夜、突然の背中の激痛に襲われたわたしは、そのまま救急車で近くの国立循環器病院に運ばれ、大動脈乖離と腹部大動脈瘤と判明、即刻、手術を受ける羽目に陥りました。

手術後も5日間、目が覚めず、その間、生死の境界をさまよっていたようです。

やっとの思いで目が覚めた数日後の夜半に、『全人類に告ぐ』という言葉が全身を駆けめぐり、本文にある内容の思いが湧き上がってきたのです。

『これは何がなんでも書かなければならない!』

全身力の入らない状態で、紙とボールペンを借りて必死に書きなぐりました。

 

まさに、

子供の頃から疑問に思っていたイエス・キリストの十字架の姿に対する解答がそこにあったのです。

そして、

何故人間だけが、

悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送るのか?

何故人間だけに、

生まれた時から王を継承する子供なのか、生まれた時から一般庶民の子供なのかの違いがあるのか?

何故人間社会だけに、

差別・不条理・戦争があるのか?

これらの疑問は、イエス・キリストが誕生した2000年前から現在に至るまで、いまだに、解決したことはありません。

人間社会は何かがおかしい。

人間の考え方はどこかおかしい。

これらの疑問に対する解答が、『全人類に告ぐ』だったのです。

 

               平成22年6月22日 新 田  論

 

(1)文明社会の光と陰

 

文明社会の歴史観は次の様に大きく分類される。

(イ)古代奴隷社会

(ロ)中世宗教社会

(ハ)近代科学社会

 

(一)世界史レベルでは

 

(イ)古代奴隷社会

 紀元前8世紀から紀元5世紀

 いわゆる圧倒的多数の奴隷と稀少の支配者二層社会

 まさに、古代奴隷社会の時代源に他ならない。

 

(ロ)中世宗教社会

 紀元5世紀(古代ローマ帝国の崩壊以後、五賢帝による共和制政治が、イエスの12使徒の一人ペテロが開いたイェルサレム教団を、西ローマ帝国の国教とすることによって、イエスの真の教えを秘匿する陰謀を企てた。

 

まさに、中世荘園(宗教)社会の時代源に他ならない。

 

西ローマ帝国の首都ローマの国教となったイェルサレム教団の大聖堂が建てられ、それが、現在のローマカトリックの本山となっているバチカンである。

 

しかし、

ローマカトリックの本山の前身は、ペテロが開いたイェルサレム教団ではなく、パウロが開いたアンティオキア教団であることこそが、イエスの真の教えを秘匿する陰謀の秘策だったのである。

イエスの十字架刑をローマ提督ピラトに要求する当時のユダヤ王国の司祭たちは、なぜそこまで同じユダヤの同胞イエスを憎んだのであろうか?

 

ここに、

文明社会の光と陰がある。

 

要するに、

唯一人間という生きものだけが、

“他人のことなどどうでもいい!”

“自分さえよかったらいい!”

という考え方を持っているからだ。

自然社会(エデンの園)の生きものたちはみんな、全体のことを中心に生きているのにである。

文明(人間)社会だけが、

男性(オス)社会を頂点にした、

支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会。

宗教と科学が横行する社会。

差別・不条理・戦争が横行する社会。

そして、

悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生。

のトライアングル型(三角形)社会になる。

根源がこの違いにある。

まさに、

イエス・キリストの出現は、それまで真暗闇だった文明(人間)社会に、光を投げかけたほど革命的であった。

 

だから、

十字架刑に遭ったのである。

太平洋戦争をしでかした日本を凝らしめるために、同じ人間の住む場所に原爆をぶち込んだアメリカ人と、イエスの十字架刑をローマ提督ピラトに要求した当時のユダヤ王国の司祭たちとの間に本質的に何も変わらない。

まさに、

中世宗教社会が暗黒の時代だったと言われる所以がここにある。

 

(ハ)近代科学社会

 紀元16世紀から現在に至る文明社会を近代科学社会と呼ぶ。

 まさに、古代、中世、近代は本質的に何も変わっていない。

 つまり、

 男性(オス)社会を頂点にした、

 支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会。

 宗教と科学が横行する社会。

 差別・不条理・戦争が横行する社会。

 そして、

 悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生。

 のトライアングル型(三角形)社会なのである。

 

ところがである。

世界の政治、経済、社会問題を解決する目的として、サミットと称して、世界の指導者たちはしょっちゅう集っているが、いまだ何一つ解決したことなどない。

まさに、

文明社会の光と陰がここに見え隠れする。

 

(二)日本の歴史レベルでは

 

(イ)古代社会

 紀元6世紀から紀元7世紀に活躍した聖徳太子の時代は、飛鳥京、大津京、平城京、そして、やがて中世の平安京へ移行していた時代

 古代解放社会の時代源である。

 まさに、聖徳太子十七条憲法が裏付けている。

 まさに、日本へのキリスト教伝来は、この時代の景教伝来に他ならなかったのである。

 

(ロ)中世宗教社会

 紀元9世紀の平安京が、古代ローマ帝国の崩壊以後、五賢帝による共和制政治が、イエスの12使徒の一人ペテロが開いたイェルサレム教団を、西ローマ帝国の国教とすることによって、イエスの真の教えを秘匿する陰謀を企てた時代に符合する。

 まさに、中世荘園(宗教)社会の時代源に他ならない。

 

(ハ)近世社会

 紀元9世紀から紀元16世紀の日本の中世には、

 中世でもない、近代でもない、近世という時代があったわけです

 

(ニ)近代社会は一般貴族優遇社会でした。

(ハ)近世社会は元百姓の武家優遇社会でした。

 まさに、織田信長のキリスト教布教許可でした。

 

そうしますと、

世界の文明社会の歴史と日本の文明社会の歴史に次のような大きな違いが生じて来る。

 

①世界の古代奴隷社会を、日本では聖徳太子が解放に務めた。

 

②世界の中世荘園(宗教)社会を、日本では近世がその役目を担った。

 

③世界の近代科学社会を、明治維新以降がその役目を担った。

 

そして、その結論は、

現在に至る近代科学社会の時代まで、文明社会は、何一つ変わっておらず、依然、奴隷社会を時代源としているのである。

 

まさに、

男性(オス)社会を頂点にした、

支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会。

宗教と科学が横行する社会。

差別・不条理・戦争が横行する社会。

 

そして、

悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生。

のトライアングル型(三角形)社会なのである。

 

もういい加減、我々は恥を知るべきである。

では、文明社会の在るべき姿のヒントはあるのだろうか?

それが、

(2)文明社会の陰と光のテーマである。

 

(2)文明社会の陰と光

我々人間が住んでいる地球を含めて、宇宙は一体どんな代物なのだろうか?

 

現代物理学では、

ミクロ宇宙は量子力学が表現し、マクロ宇宙は一般相対論が表現していて、世界の科学者たちは、量子力学と一般相対論の統合に躍起になっている。

 

果たして、その延長線上に、統一論は存在するのだろうか?

答えは“No!”である。

なぜなら、

量子力学も一般相対論も自然数を基本に置いた学問だからである。

 

ところが、

宇宙は素数を基本に置いて存在するからである。

      

この先の『目次』ですが、リンクしていません。

1.ゼロ宇宙を哲学する 47.予想不可能=実現可能
2.超(統一)理論を哲学する 48.『今、ここ』を構える
3.哲学するとは内観すること 49.連想 & 集中 &無心
4.科学する V.S. 哲学する 50.映像宇宙 & 実在宇宙
5.ゼロ=自我がゼロ 51.『今、ここ』と現在の交差点
6.ゼロの世界=唯一の力の世界=静止の世界 52.実現可能→実現→現実
7.ゼロの世界=喜怒哀楽の無い世界 53.水平(映像)世界→垂直(実在)世界への鍵
8.ゼロの世界 & 永遠の世界 54.『今、ここ』を生きる鍵
9.ゼロの世界=予想不可能な世界の元 55.はじめの「想い」
10.ゼロの世界=虚時間の世界 56.はじめの「想い」の正体
11.人間原理 57.固定観念という壁
12.見える世界 & 見えない世界 58.折り返し点(特異点)
13.水平世界 & 垂直世界 59.夢の中の眠り
14.境界のない世界 & 境界のある世界 60.一日の人生の折り返し点
15.最後の素数 61.生きる理解=死の理解の鍵
16.永遠に見えない(観測できない)最後の素数 62.生きる鍵
17.主観 & 客観 63.死ぬ鍵
18.無い=実在 & 有る=映像 64.死ぬ証明
19.人間原理 & 犬原理 & 猫原理 65.一日=一生の一瞥
20.『今、ここ』=垂直世界 & 過去・現在・未来=水平世界 66.輪廻転生説 V.S.記憶喪失症
21.過去・(現在)・未来の映像世界 66.背中合わせの生と死
22.『今、ここ』が本当の時間 67.忘れ去られた死の人生(位相)
23.寝ても起きても夢(映像)のいわゆる現実 68.好いとこ取りの相対一元論の発生原因
24.最後の最後の素数 69.誕生・生・死は地球の相転移現象
25.夢に気づく=目が覚める 70.知らないことに怯える人間
26.夢に気づく=目が覚める=意識する 71.二元論の世界を理解する鍵
27.割り切り不能力=潜在能力 72.生・死二元要因の正体
28.科学・宗教は自己矛盾の極み 73.実在宇宙 & 映像宇宙
29.科学 & 哲学 74.観測できない宇宙 & 観測できる宇宙
30.潜在能力の正体 75.実在宇宙と映像宇宙の乖離
31.特異点の正体 76.乖離=『今、ここ』
32.遠い宇宙観から高い(深い)宇宙観へ 77.『今』 & 『ここ』
33.水平宇宙観 78.静止する時間
34.垂直宇宙観 79.自分ひとりだけの実在世界
35.垂直宇宙観=『今、ここ』の宇宙 80.光は暗闇の不在概念が真理
36.最後の素数=最後の未来=死 81.はじめに暗闇ありき=宇宙の話
37.科学者=不完全な知性の持ち主 82.はじめにことばありき=人間社会の話
38.宗教者=科学者=不完全な知性の持ち主 83.暗闇の実在性
39.自己矛盾に満ちた学問 84.光の欺瞞性
40.必然性 & 偶然性 85.二律背反 & 補完
41.すべてが偶然 86.自然数の宇宙 & 素数の宇宙
42.宗教・科学では真理を見出すことはできない 87.有限の宇宙 & 無限の宇宙
43.宗教・科学はしょせん主観 88.二つの宇宙
44.不可能とは可能の不在概念 89.鏡の中の宇宙
45.すべてが可能な実在の世界 90.実在と鏡の正体
46.予想可能=実現不可能 91.鏡の中の自分=自我意識(エゴ)

  

1.「ゼロの世界」を哲学する

拙著「超対性理論」(Vol.III)第八十二章【ゼロ宇宙を哲学する】の引用から、先ず、はじめましょう。

小難しい文章は無視して、下記の引用の最後の件だけを理解して頂ければいいでしょう。

『問題は、

宇宙が無限大=ゼロであるとはどういうことなのかを科学するのではなく、哲学するべきである』

「ゼロの世界」を科学するのではなく、哲学することが、この作品の狙いなのです。

 

【ゼロ宇宙を哲学する】

膨張し続ける宇宙。

若しくは、

膨張から収縮に転ずる宇宙。

これらのふたつの宇宙はしょせん映像宇宙である。

従って、

膨張し続ける宇宙でもなく、

膨張から収縮に転ずる宇宙でもない、

ゼロ次元点静止の宇宙こそが、実在宇宙である。

つまり、

振り子のモーメント(バネ)を極大化するか極小化するかだ。

そこで、

アインシュタインの一般相対論の核である方程式に注目してみよう。

Gij=8πG/C⁴*Tij

ふたつの宇宙に区分けしている根拠は、

宇宙の全質量(=全エネルギー量)である(Tij)次第であり、

宇宙の歪曲度(Gij)>無限大、

若しくは、

宇宙の歪曲度(Gij)<無限大、

つまり、

歪曲度が正の空間と負の空間のふたつしか区分けしていないからである。

宇宙の歪曲度(Gij)=無限大、

は、

宇宙の歪曲度(Gij)>無限大、

つまり、

正の空間に組み込まれているのである。

科学者は実に矛盾したことをする。

宇宙の歪曲度(Gij)=無限大、

つまり、

ゼロの空間という宇宙もあるはずだ。

つまり、

宇宙の歪曲度(Gij)=無限大=ゼロの空間の宇宙こそが、静止の宇宙なのである。

では、

宇宙の歪曲度(Gij)=無限大=ゼロの空間の宇宙とは一体どういう意味だろうか?

言うまでもなく、

宇宙の全質量(=全エネルギー量)が無限大=ゼロということに他ならない。

言い換えれば、

始まりも終わりもない宇宙に他ならない。

従って、

ゼロ次元点静止の宇宙に他ならない。

ややこしい方程式などなくても当たり前のことだ。

宇宙が無限大以上か、無限大以下かを論ずるだけで、

宇宙が無限大=ゼロであることを避けている科学などペテン以外の何者でもない。

問題は、

宇宙が無限大=ゼロであるとはどういうことなのかを科学するのではなく、哲学するべきである。

 

2.超(統一)理論を哲学する

現代科学では、電磁気力と弱い核力を統一する統一理論は既に完成しているそうです。

更に、

強い核力を加えた大統一理論も完成間近だそうです。

ところが、

更に、重力を加えた、超大統一理論にはまったく歯がたたないそうです。

なぜならば、

超大統一理論は科学するのではなく、哲学するしか方法はないからです。

なぜならば、

ゼロ世界(ゼロ宇宙)は哲学する道しかないからです。

まさに、

超(統一)理論は哲学する道しかないのです。

 

【重力加速度=無限大速度】

宇宙の歪曲度(Gij)=無限大とは一体どういう意味だろうか?

言うまでもなく、

宇宙の全質量(=全エネルギー量)=(Tij)が無限大ということに他ならない。

そこで、

質量(m)とは重力(F)に他ならない。

つまり、

ニュートンの運動方程式。

F=mαである。

そうすると、

宇宙の全質量(=全エネルギー量)=(Tij)が無限大ということは、

重力(F)が無限大ということに他ならない。

まさに、

ニュートンが主張した、

重力加速度(α)が無限大ということに他ならない。

逆に言えば、

宇宙の全質量(=全エネルギー量)=(Tij)=無限大=ゼロであるということは、

重力(F)=無限大=ゼロ。

であり、

重力加速度(α)=無限大=ゼロ。

ということになる。

まさに、

無限大=ゼロが鍵だ。

従って、

四つの力の中、

電磁気力、弱い核力、強い核力という量子世界(ミクロ世界)、

に、

重力という宇宙世界(マクロ世界)、

を組み込むのではなく、

重力という宇宙世界(マクロ世界)、

に、

電磁気力、弱い核力、強い核力という量子世界(ミクロ世界)、

が組み込まれるべきである。

結局の処、

電磁気力と弱い核力を統一する理論である統一理論、

電磁気力と弱い核力と強い核力を統一する大統一理論、

など徒労以外の何者でもない。

それよりも、

重力と電磁気力と弱い核力と強い核力を統一する超大統一理論こそが重要なのである。

ところが、

現代科学者は、超大統一理論にはまったく歯がたたないのである。

なぜならば、

超大統一理論は科学するのではなく、哲学するしか方法はないからである。

なぜならば、

ゼロ世界(ゼロ宇宙)は、哲学する道しかないのである。

 

3.哲学するとは内観すること

現代人は、

自己反省することを完全に忘れてしまったようです。

自己主張しないと生き残れないと思い込んでいるからです。

だから、

外観を飾り立てようとする。

外観を飾り立てようとすればするほど、中味は貧しくなっていくのが当たり前です。

まさに、

映像世界ばかりに目を向けて、実在世界から目を背けてきた結果です。

「ゼロの世界」に目を向けることは、自分の中味を充実させることに他ならないのです。

 

【ゼロ(次元)世界=中味の自分】

宇宙の歪曲度(Gij)=無限ゼロ(次元)宇宙こそが、実在の世界であった。

次元宇宙など、しょせん、映像の世界であった。

しかも、

ゼロ=無限大であった。

言い換えれば、

始点=終点であった。

まさに、

0=∞であった。

1、2、3、4、5、6、7、8、9は、しょせん、映像であった。

すなわち、

ミクロ宇宙(量子世界)、

も、

マクロ宇宙(宇宙世界)、

も、

ミディアム宇宙(人間世界)、

も、しょせん、映像宇宙であった。

部屋で喩えれば、

壁が映像であり、壁の中の空間(空き間)が実在なのである。

ところが、

我々人間は、

壁が自分だと勘違いしてきたのである。

壁で囲まれた何もない空間(空き間)こそが、本当の自分だったのである。

壁を自分だと勘違いしているから、壁の色や壁の質のことや壁の形ばかりに気を取られていたのである。

言い換えれば、

服装や飾りばかりに気を取られて、中味の自分を忘れていたニセモノの自分に他ならない。

従って、

次元世界こそが、

壁の世界だったのである。

服装や飾りの世界だったのである。

ゼロ(次元)世界こそが、

壁の中の何もない空間(空き間)だったのである。

中味の自分だったのである。

 

4.科学するV.S.哲学する

科学の基礎には数学があり、科学すべての分野は数学無くして存在し得ないのです。

そして、数学の基本はゼロの概念に尽きます。

ところが、

科学を生みだしたわたしたち人間は、致命的なミスを冒してしまった。

科学は、すべての基本にあるゼロの概念を横に置いて、数字の概念ばかりを追求してきたのです。

1+1=2、1+2=3、1+3=4、1+5=6、1+6=7、1+8=9の世界ばかりを追求してきたのです。

そして、

1+9=10の世界の意味を横に置いてきたのです。

まさしく、

1+1=2、1+2=3、1+3=4、1+5=6、1+6=7、1+8=9の世界は科学する世界ですが、

1+9=10の世界は哲学する世界だったのです。

 

【ゼロ=無=実在 & 数=有=映像】

ゼロ(次元)世界こそが、

壁の中の何もない空間(空き間)だったのである。

中味の自分だったのである。

つまり、

ゼロ(次元)世界こそが、

実在の世界だったのである。

突き詰めれば、

ゼロ=実在だったのである。

一方、

次元世界こそが、

壁の世界だったのである。

服装や飾りの世界だったのである。

つまり、

次元世界こそが、

映像の世界だったのである。

突き詰めれば、

1、2、3、4、5、6、7、8、9=映像だったのである。

従って、

1、2、3、4、5、6、7、8、9=映像、

は、

ゼロ=実在、

の不在概念に過ぎなかったのである。

では、

この意味は一体何を示唆しているのだろうか?

つまり、

すべての数字は、

ゼロから始まって(始点)、

ゼロで終わる(終点)、

ことを示唆しているのである。

まさに、

数学(算数)の基本はゼロなのである。

言い換えれば、

数学(算数)からゼロを取り去れば、数学(算数)は成立しなくなる。

つまり、

すべての事象はゼロから始まる。

たとえば、

数字1にゼロが加われば、

ゼロの価値は9になる。

なぜならば、

1が即座に10になるからだ。

つまり、

9はゼロから生まれたことになる。

数字1に二つのゼロが加われば、

1が即座に100になる。

つまり、

ゼロの価値は99になる。

従って、

数学はゼロによって構築されている。

まさに、

1、2、3、4、5、6、7、8、9=映像、

は、

ゼロ=実在、

の不在概念に過ぎなかったのである。

 

5.ゼロ=自我がゼロ

「有る」ということは、映像が「有る」ということに他なりません。

「無い」ということは、映像が「無い」ということに他なりません。

従って、「有る」と「在る」は正反対の言葉です。

「在る」ということは、実在するということに他なりません。

「考える」ということは、映像を観るということに他なりません。

つまり、

「在る」ということは、映像が「無い」ということに他なりません。

「考える」ということは、映像が「有る」ということに他なりません。

従って、「ゼロ」とは映像がゼロということに他なりません。

従って、「ゼロ」とは自我がゼロということに他なりません。

 

【ゼロ=無限大=全体感】

ゼロ(次元)世界こそが、

壁の中の何もない空間(空き間)だったのである。

中味の自分だったのである。

つまり、

ゼロ(次元)世界こそが、

実在の世界だったのである。

一方、

次元世界こそが、

壁の世界だったのである。

服装や飾りの世界だったのである。

つまり、

次元世界こそが、

映像の世界だったのである。

この事実は極めて重要だ。

ゼロ(次元)世界=無限大(無限次元)世界だったのである。

まさに、

0=∞だったのである。

ところが、

我々人間だけが、

この事実に気がつかなかった。

なぜならば、

次元世界、

つまり、

壁の世界。

服装や飾りの世界。

つまり、

映像の世界。

が、

ゼロの世界と無限大の世界の間の障害物になっていたからだ。

新田流で言えば、

我々人間が持つ部分観が、宇宙全体感を持つ障害物になっていたからだ。

言い換えれば、

過去・(現在)・未来に想いを馳せることが、『今、ここ』にいるための障害物になっていたからだ。

 

6.ゼロの世界=唯一の力の世界=静止の世界

ゼロは唯一です。

数字は無数です。

これは一体何を意味しているのでしょうか?

まさしく、

ゼロの世界は、静止の世界に他ならないのです。

一方、

数字の世界は、運動の世界に他ならないのです。

まさに、

ビッグバン以後の四つの力の世界は、運動の世界なのです。

一方、

ビッグバン以前の唯一の力の世界は、静止の世界なのです。

 

【ゼロ=静止点】

(静止)点世界こそが、

壁の中の何もない空間(空き間)だったのである。

中味の自分だったのである。

つまり、

(静止)点世界こそが、

実在の世界だったのである。

突き詰めれば、

静止=実在だったのである。

一方、

運動線世界こそが、

壁の世界だったのである。

服装や飾りの世界だったのである。

つまり、

運動線世界こそが、

映像の世界だったのである。

突き詰めれば、

円周=映像だったのである。

従って、

運動線円周=映像、

は、

静止点=実在、

の不在概念に過ぎなかったのである。

では、

この意味は一体何を示唆しているのだろうか?

つまり、

すべての円周線は、

静止点から始まって(始点)、

静止点で終わる(終点)、

ことを示唆しているのである。

まさに、

円回帰運動の基本は静止点なのである。

言い換えれば、

円回帰運動から静止点を取り去れば、円回帰運動は成立しなくなる。

つまり、

すべての事象は静止点(ゼロ)から始まる。

 

7.ゼロの世界=喜怒哀楽の無い世界

ゼロは唯一です。

数字は無数です。

これは一体何を示唆しているのでしょうか?

ホンモノの自分は唯一しかない。

ニセモノの自分は無数にある。

つまり、

ホンモノの自分はゼロの世界に実在しているのに対して、ニセモノの自分は無数の世界に映っていることに他ならないことを示唆しているのです。

現に、

自分の姿は見えなくて、他人の姿が見えるのが、わたしたちがいわゆる現実に生きている世界です。

見えない自分と見える他人。

まさに、

見えないホンモノの自分はゼロの世界に実在しているのに対して、見える他人というニセモノの自分は無数の世界に映っていることに他ならないことを示唆しているのです。

まさに、

見える他人こそニセモノの無数の映像の自分に他ならなかったのです。

つまり、

他人を通して見ている自分の映像こそが、ニセモノの無数の自分、つまり、自我意識(エゴ)の正体に他ならなかったのです。

他人から誉められて喜んでいる自分が、ニセモノの無数の自分、つまり、自我意識(エゴ)の正体に他ならないのです。

他人から侮辱されて怒っている自分が、ニセモノの無数の自分、つまり、自我意識(エゴ)の正体に他ならないのです。

他人から叱られて哀しんでいる自分が、ニセモノの無数の自分、つまり、自我意識(エゴ)の正体に他ならないのです。

他人から感謝されて楽しんでいる自分が、ニセモノの無数の自分、つまり、自我意識(エゴ)の正体に他ならないのです。

まさに、

喜怒哀楽する自分は、ニセモノの無数の自分、つまり、自我意識(エゴ)の正体に他ならないのです。

逆に言えば、

喜怒哀楽の無い、つまり、ゼロの世界こそが、ホンモノの唯一の自分が実在する世界に他ならないのです。

 

8.ゼロの世界 & 永遠の世界

喜怒哀楽する自分は、ニセモノの無数の自分、つまり、自我意識(エゴ)の正体に他ならない。

逆に言えば、

喜怒哀楽の無い、つまり、ゼロの世界こそが、ホンモノの唯一の自分が実在する世界に他ならない。

つまり、

ホンモノの自分を映している他人という鏡は、

正面の鏡と背面の鏡がある。

正面の鏡だけなら、自分の正面の姿しか見えないが、正面の鏡と背面の鏡があってはじめて、自分の全体の姿が映し出される。

以降、

映像は永遠に映し出される。

言い換えれば、

永遠とは予想不可能な事象に他ならない。

そこで、

ゼロは唯一です。

数字は無数です。

そして、

数字には、自然数、実数、整数、素数、複素数といったものに分類されているが、自然数が基本ではなくて、素数が基本になっています。

なぜならば、

どんな自然数も、素数の積(掛け算の組み合わせ)で表現できるからです。

しかも、

その表現の方法は一種類しかないのです。

従って、

素数は、自然数の構成要素としての役割を果たしているわけです。

言い換えれば、

素数の全体は、自然数の乗法(掛け算)の際に、最小の構成数字になるわけです。

更に、

自然数の中から素数を除いたものを、合成数と呼ばれています。

つまり、

人工的な数字というわけです。

平たく言えば、

数字の基本は、自然数ではなくて、素数であるわけです。

自然数とは、1、2、3、4、5、6、7、8、9、10・・・で先が予想できます。

一方、

素数とは、2,3、5、7、11、・・・・・・・・・・・・・で先が予想できません。

まさに、

リーマン予想は、予想不可能な素数を予想しようというわけですが、未だ、人類は予想できていません。

まさに、

「永遠」というテーマを解く鍵がここに隠されているのです。

 

9.ゼロの世界=予想不可能な世界の元

先が予想できる自然数は、

正面の鏡と背面の鏡に映る映像です。

先が予想できない素数は、

正面の鏡と背面の鏡に映る永遠の鏡に映る映像です。

まさに、

自然数は、正面の鏡に映っているホンモノの自分の正面の映像と、背面の鏡に映っているホンモノの自分の背面の映像であって、実在の映像という点において予想可能な数字(実在の映像)であるわけです。

まさに、

1の次は2であり、2の次は3であり・・・nの次は(n+1)になることが予想可能であるわけです。

一方、

素数は、正面の鏡に映っている背面の鏡の中の映像の鏡の中の正面の鏡の中の映像の鏡の中の背面の鏡の中の映像・・・であって、何処まで映っているのかという点において予想不可能な数字(映像の映像)であるわけです。

まさに、2の次は3であり、3の次は5であり、5の次は7であり、7の次は11であり・・・nの次は予想不可能であるわけです。

従って、

自然数も素数も永遠の世界の数字であっても、自然数は予想可能な数字であるのに対して、素数は予想不可能な数字であって、しかも、予想不可能な素数が、予想可能な自然数の元になっているのです。

つまり、

正面の鏡に映っている背面の鏡の中の映像の鏡の中の正面の鏡の中の映像の鏡の中の背面の鏡の中の映像・・・であって、何処まで映っているのかという点において予想不可能な映像の映像が、実は、正面の鏡に映っているホンモノの自分の正面の映像と、背面の鏡に映っているホンモノの自分の背面の映像の元になっているのです。

従って、

「ゼロの世界」が元になっている「数字(映像)の世界」は、まさしく、予想不可能な素数の世界なのです。

 

10.ゼロの世界=虚時間の世界

先が予想できる自然数は、

1の次は2であり、2の次は3であり・・・nの次は(n+1)で表現可能である。

つまり、

自然数=nで表現できる。

n=1なら、その自然数は1である。

n=∞なら、その自然数は∞である。

ところが、

先が予想できない素数は、

2の次は3であり、3の次は5であり、5の次は7であり、7の次は11であり・・・nの次は予想不可能であるわけです。

そこで、

2は、n=1の条件で2Xn+1X(n‐1)=2で表現できます。

3は、n=1の条件で2Xn+1Xn=3で表現できます。

5は、n=2の条件で2Xn+1X(n‐1)=5で表現できます。

7は、n=3の条件で2Xn+1X(n‐2)=7で表現できます。

11は、n=4の条件で2Xn+1X(n‐1)=7で表現できます。

13は、n=5の条件で2Xn+1X(n‐2)=13で表現できます。

17は、n=6の条件で2Xn+1X(n‐1)=17で表現できます。

19は、n=7の条件で2Xn+1X(n‐2)=19で表現できます。

23は、n=8の条件で2Xn+1X(n‐1)=23で表現できます。

ところが、

n=9の条件で表現できる素数はない。

そして、

29は、n=10の条件で2Xn+1X(n‐1)=29で表現できます。

31は、n=11の条件で2Xn+1X(n‐2)=31で表現できます。

ところが、

n=12の条件で表現できる素数はない。

そして、

37は、n=13の条件で2Xn+1X(n‐2)=37で表現できます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

まさに、

ゼータ関数の元になっているものです。

そして、

ここに複素数(a+bi)の概念が入ってきます。

つまり、

虚数(i)の概念が入ってきます。

まさに、

虚時間の元になるものです。

ゼロの世界は、虚時間の世界である所以がここにあります。

 

11.人間原理

「人間原理」とは、

物理学、特に、宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方です。

宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ、人間は宇宙を観測し得ないからであるという論理に基づいています。

従って、

「人間原理」を駆使すると、

宇宙の構造が現在のようである理由の一部を解釈できるわけです。

そして、

「弱い人間原理」、

「強い人間原理」、

という二つの考え方があります。

(1)弱い人間原理

宇宙の構造を考えるとき、人間の存在という偏った条件を考慮しなければならないという考え方を「弱い人間原理」と呼びます。

(2)強い人間原理

生命が存在し得ないような宇宙は観測されない。

つまり、

宇宙は生命が存在するような構造をしていなければならないという考え方を「強い人間原理」と呼びます。

まさに、

わたしたち人間の存在を、

宇宙の中心に置く考え方に他なりません。

逆に言えば、

人間の存在を中心にした宇宙しか観測できないというわけです。

まさに、

観測できる宇宙しかないのか?

観測できない宇宙もあるのか?

まさに、

「ゼロの世界」とは、

観測できない宇宙に他なりません。

 

12.見える世界 & 見えない世界

「人間原理」の基本になっているのは、

わたしたち人間が観測できる世界に限っているということになります。

平たく言えば、

見える世界だけが実在して、見えない世界は実在しない、という考え方に他なりません。

まさに、

先が予想できる自然数は、

正面の鏡と背面の鏡に映る映像です。

つまり、

見える(観測できる)世界のことです。

一方、

先が予想できない素数は、

正面の鏡と背面の鏡に映る永遠の鏡に映る映像です。

つまり、

見えない(観測できない)世界のことです。

まさに、

自然数は、正面の鏡に映っているホンモノの自分の正面の映像と、背面の鏡に映っているホンモノの自分の背面の映像であって、実在の映像という点において予想可能な数字(実在の映像)であるわけです。

まさに、

1の次は2であり、2の次は3であり・・・nの次は(n+1)になることが予想可能であるわけです。

一方、

素数は、正面の鏡に映っている背面の鏡の中の映像の鏡の中の正面の鏡の中の映像の鏡の中の背面の鏡の中の映像・・・であって、何処まで映っているのかという点において予想不可能な数字(映像の映像)であるわけです。

まさに、2の次は3であり、3の次は5であり、5の次は7であり、7の次は11であり・・・nの次は予想不可能であるわけです。

従って、

自然数も素数も永遠の世界の数字であっても、自然数は予想可能な数字であるのに対して、素数は予想不可能な数字であって、しかも、予想不可能な素数が、予想可能な自然数の元になっているのです。

つまり、

正面の鏡に映っている背面の鏡の中の映像の鏡の中の正面の鏡の中の映像の鏡の中の背面の鏡の中の映像・・・であって、何処まで映っているのかという点において予想不可能な映像の映像が、実は、正面の鏡に映っているホンモノの自分の正面の映像と、背面の鏡に映っているホンモノの自分の背面の映像の元になっているのです。

まさに、

観測できない世界が、観測できる世界の元になっている証明に他なりません。

まさに、

ゼロの世界が、数字の世界の元になっている証明に他なりません。

まさに、

実在する自分は見えない(観測できない)が、映像である他人は見える(観測できる)のです。

 

13.水平世界 & 垂直世界

実在する自分は見えない(観測できない)が、映像である他人は見える(観測できる)。

まさに、

実在の世界は、見えない(観測できない)。

映像の世界は、見える(観測できる)。

わたしたち人間が、いわゆる現実と信じている昼間目が覚めている世界は、まさに、見える(観測できる)映像の世界に他ならないのです。

更に、

わたしたち人間が、いわゆる夢と信じている夜間眠っている世界も、まさに、見える(観測できる)映像の世界に他ならないのです。

夢を観るとは、映画を鑑賞していることに他ならない。

逆に言えば、

夢を観るとは、映画に出演しているのではない。

言い換えれば、

夢を観ている自分は、しょせん、映画の鑑賞者であって、映画の登場人物ではないのです。

ところが、

わたしたち人間は、夢を観ている自分が映画の主人公だと勘違いしているのです。

だから、

夢を夢だと理解できず、現実だと想い込んでしまうわけです。

そして、

夢から覚めたら、現実と想っていたことが、夢であったことに気づくのです。

まさに、

過去や未来に想いを馳せるとは、映画(夢)を観ている世界を現実の世界と勘違いすることに他ならないのです。

従って、

予想不可能な世界は、『今、ここ』という虚時間の垂直世界に他ならないのです。

逆に言えば、

予想可能な世界は、過去・(現在)・未来に想いを馳せる実時間の水平世界に他ならないのです。

まさに、

ゼロの世界とは、『今、ここ』という虚時間の垂直世界に他ならないのです。

 

14.境界のない世界 & 境界のある世界

予想可能な世界は、過去・(現在)・未来に想いを馳せる実時間の水平世界に他ならない。

この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?

まさに、

有限の世界は、境界線(特異点)がないということを示唆しているのです。

つまり、

予想可能な世界とは、有限の世界に他なりません。

まさに、

1の次は2であり、2の次は3であり・・・nの次は(n+1)と予想可能であるわけです。

ところが、

nが無限に続くということは、境界線(特異点)がないということを示唆しているのです。

まさに、

自然数の世界です。

一方、

ゼロの世界とは、『今、ここ』という虚時間の垂直世界に他ならない。

この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?

まさに、

無限の世界は、境界線(特異点)があるかもしれないということを示唆しているのです。

つまり、

予想不可能な世界とは、無限の世界に他なりません。

まさに、

2の次は3であり、3の次は5であり、5の次は7であり、7の次は11であり・・・nの次は予想不可能であるわけです。

そして、

nが無限に続くかどうかわからないということは、境界線(特異点)があるかもしれないということを示唆しているのです。

まさに、

素数の世界です。

従って、

自然数の世界は、境界線(特異点)がないということを示唆しているのです。

一方、

素数の世界は、境界線(特異点)があるかもしれないということを示唆しているのです。

言い換えれば、

数字の世界は、境界線(特異点)がないということを示唆しているのです。

一方、

ゼロの世界は、境界線(特異点)があるかもしれないということを示唆しているのです。

更に言い換えれば、

映像の世界は、境界線(特異点)がないということを示唆しているのです。

一方、

実在の世界は、境界線(特異点)があるかもしれないということを示唆しているのです。

まさに、

死とは、境界線(特異点)に他ならない証明です。

しかし、

未だ死んだことのない人間には、境界線(特異点)があるかもしれないとしか言いようがないのです。

この事実は極めて重大なのです。

 

15.最後の素数

特異点(境界)がない、有限の世界が、予想可能な世界である。

言い換えれば、

予想可能な有限の世界なのに、特異点(境界)が無い。

更に言い換えれば、

有の世界なのに、(特異点(境界)が)無い。

一方、

特異点(境界)があるかもしれない、無限の世界が、予想不可能な世界である。

言い換えれば、

予想不可能な無限の世界なのに、特異点(境界)が有る。

更に言い換えれば、

無の世界なのに、(特異点(境界)が)有る。

この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?

ここで、

自然数と素数の関係を思い出してみましょう。

自然数は、無数なのに予想可能な数字です。

つまり、

1の次は2であり、2の次は3であり・・・nの次は(n+1)と予想可能であるわけです。

一方、

素数も、無数のはずなのに予想不可能な数字なのです。

つまり、

2の次は3であり、3の次は5であり、5の次は7であり、7の次は11であり・・・nの次は予想不可能であるわけです。

まさに、

自然数は、

予想可能な有限の世界なのに、特異点(境界)が無い。

更に言い換えれば、

有の世界なのに、(特異点(境界)が)無い。

詰まる処、

自然数は無数にあるから、nの次は(n+1)と表現できるのです。

一方、

素数は、

予想不可能な無限のはずなのに、特異点(境界)が有る。

更に言い換えれば、

無の世界なのに、(特異点(境界)が)有る。

詰まる処、

素数は、nの次が表現できないから、有限の数なのです。

この事実は途轍もない発見です。

言い換えれば、

最後の自然数がないから、nの次は(n+1)と表現できるのです。

一方、

最後の素数があるから、nの次が表現できないのです。

まさに、

素数には最後があるのです。

しかし、

最後の素数が、人間原理の外側にあれば、わたしたち人間が発見することは不可能でしょう。

 

16.永遠に見えない(観測できない)最後の素数

最後の自然数がないから、nの次は(n+1)と表現できる。

一方、

最後の素数があるから、nの次が表現できない。

まさに、

素数には最後がある。

つまり、

2の次は3であり、3の次は5であり、5の次は7であり、7の次は11であり・・・最後の素数。

まさに、

正面の鏡に映っている背面の鏡の中の映像の鏡の中の正面の鏡の中の映像の鏡の中の背面の鏡の中の映像・・・であって、何処まで映っているのかという点において予想不可能な映像の映像ですが、

最後の映像は必ず存在するはずです。

問題は、

何処まで見えるか(観測できるか)?にあって、

何処まで存在するか?にはないのです。

更に、

問題自身がその解答になっている。

つまり、

何処まで見えるか(観測できるか)?ではなくて、

何処まで存在するか?にあり、

その解答は、

最後の素数は必ずあるが、

最後の素数が何かはわからない.

最後の映像は必ずあるが、

最後の映像が何かはわからない。

逆に言えば、

何処までの映像が見えるか(観測できるか)?の問題は、個人の主観に委ねられているのです。

何処までの素数がわかるか?の問題は、個人の主観に委ねられているのです。

つまり、

「人間原理」とは、個人の主観に委ねられているのです。

 

17.主観 & 客観

「人間原理」をもう一度思い出してみましょう。

 

「人間原理」とは、

物理学、特に、宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方である。

宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ、人間は宇宙を観測し得ないからであるという論理に基づいている。

従って、

「人間原理」を駆使すると、

宇宙の構造が現在のようである理由の一部を解釈できる。

そして、

「弱い人間原理」、

「強い人間原理」、

という二つの考え方がある。

(1)弱い人間原理

宇宙の構造を考えるとき、人間の存在という偏った条件を考慮しなければならないという考え方を「弱い人間原理」と呼ぶ。

(2)強い人間原理

生命が存在し得ないような宇宙は観測されない。

つまり、

宇宙は生命が存在するような構造をしていなければならないという考え方を「強い人間原理」と呼ぶ。

まさに、

わたしたち人間の存在を、

宇宙の中心に置く考え方に他ならない。

逆に言えば、

人間の存在を中心にした宇宙しか観測できないという。

まさに、

観測できる宇宙しかないのか?

観測できない宇宙もあるのか?

まさに、

この問いに対する解答が、

最後の素数は必ずあるが、

最後の素数が何かはわからない。

最後の映像は必ずあるが、

最後の映像が何かはわからない。

逆に言えば、

何処までの映像が見えるか(観測できるか)?の問題は、個人の主観に委ねられている。

何処までの素数がわかるか?の問題は、個人の主観に委ねられている。

つまり、

ひとり一人の人間(個人)の五感能力に委ねられているのです。

言い換えれば、

ひとり一人の人間(個人)の潜在能力の発揮度に委ねられているのです。

更に言い換えれば、

ひとり一人の人間(個人)の知性度に委ねられているのです。

更に言い換えれば、

ひとり一人の人間(個人)の記憶度に委ねられているのです。

まさに、

一般人は、π(円周率)=3.14までしか知らないが、

専門家は、π(円周率)=3.14159263587932384・・・まで知っている違いに過ぎず、

結局の処、

誰も最後まで知らない。

 

18.無い=実在 & 有る=映像

一般人は、π(円周率)=3.14までしか知らないが、

専門家は、π(円周率)=3.14159263587932384・・・まで知っている違いに過ぎず、

結局の処、

誰も最後まで知らない。

この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?

まさに、

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、個人の主観に委ねられている。

つまり、

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、

ひとり一人の人間(個人)の五感能力に委ねられている。

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、

ひとり一人の人間(個人)の潜在能力の発揮度に委ねられている。

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、

ひとり一人の人間(個人)の知性度に委ねられている。

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、

ひとり一人の人間(個人)の記憶度に委ねられている。

従って、

何処までの素数がわかるか?の問題も、

何処までの映像が見えるか(観測できるか)?の問題も、

ひとり一人の人間(個人)の五感能力に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の潜在能力の発揮度に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の知性度に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の記憶度に委ねられている。

従って、

そもそも何も無いのです。

従って、

そもそもゼロの世界なのです。

従って、

いくら素粒子を探求しても無いものは観測できるわけがありません。

 

19.人間原理 & 犬原理 & 猫原理

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題も、

何処までの素数がわかるか?の問題も、

何処までの映像が見えるか(観測できるか)?の問題も、

個人の主観に委ねられている。

つまり、

ひとり一人の人間(個人)の五感能力に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の潜在能力の発揮度に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の知性度に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の記憶度に委ねられている。

まさに、

「人間原理」

つまり、

人間の存在理由が、

個人の主観に委ねられている。

つまり、

ひとり一人の人間(個人)の五感能力に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の潜在能力の発揮度に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の知性度に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の記憶度に委ねられている。

そして、

人間の存在理由が、宇宙の存在理由になっている。

従って、

宇宙の存在理由は、人間の存在理由がわかればわかる。

ただし、

人間の存在理由は、人間しかわからない(観測できない)ように、

自然社会の生きものの存在理由は、自然社会の生きものしかわからない(観測できない)のです。

つまり、

「人間原理」は、人間社会だけに通用する世界であるように、

「犬原理」は、犬社会だけに通用する世界であり、

「猫原理」は、猫社会だけに通用する世界なのです。

ところが、

人間社会には、人間だけの言葉があり、

犬社会には、犬だけの言葉があり、

猫社会には、猫だけの言葉がある。

更に、

アメリカ人には、アメリカ人だけのアメリカ語(米語)があり、

中国人には、中国人だけの中国語があり、

日本人には、日本人だけの日本語がある。

更に、

ボストンには、東部アメリカ人だけのアイリッシュイングリッシュがあり、

テキサスには、西部アメリカ人だけのテキサスイングリッシュがあり、

上海には、上海中国人だけの上海語があり、

北京には、北京中国人だけの北京語があり、

台湾には、台湾中国人だけの台湾語があり、

関東人には、東人(あずまひと)だけの江戸っ子弁があり、

関西人には、上方(京おんな)だけの関西弁がある。

では、

シェパードには、シェパード語があり、

ブルドッグには、ブルドッグ語があり、

野良犬には、野良犬語があり、

シャム猫には、シャム猫語があり、

ペルシャ猫には、ペルシャ猫語があり、

野良猫には、野良猫語があるのでしょうか?

まさに、

人間社会だけにある、

オス社会。

宗教や科学。

支配・被支配二層構造の世襲・相続の差別社会。

悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生。

差別・不条理・戦争。

の原因がここにあるのです。

 

20.『今、ここ』=垂直世界 & 過去・現在・未来=水平世界

過去・(現在)・未来という(実)時間が水平的である理由は、

過去=1瞬前、1秒前、1分前、1時間前、1日前、1週間前、1ヶ月前、1年前、1生前で表現されます。

現在=1瞬、1秒、1分、1時間、1日、1週間、1ヶ月、1年、1生で表現されます。

未来=1瞬後、1秒後、1分後、1時間後、1日後、1週間後、1ヶ月後、1年後、1生後で表現されます。

そして、

基本にある1日と1年は、

自転運動と公転運動によって決定されます。

従って、

地球上に存在している生きものは、

一日=24時間、

一年=365.25日、

に支配されています。

そこで、

自転運動とは、地球の経線に沿った(地軸の周りを回る)水平運動に他ならない。

まさに、

過去・(現在)・未来という(実)時間が水平的である所以です。

一方、

『今、ここ』という虚時間が垂直的である理由は、

実数(a)+虚数(bi)=複素数(a + bi)は直角変換されます。

つまり、

(a + bi)の第一象限座標点に虚数iを一回乗ずると、

(a + bi)X i=ai+bi2 =‐b+aiとなり、第二象限座標点に直角変換されます。

以下同様に、

第一象限座標点→第二象限座標点→第三象限座標点→第四象限座標点→第一象限座標点・・・というように円運動するからです。

まさに、

実数時間が経線に沿った水平的運動をするのに対して、

複素数時間は緯線に沿った垂直的運動をする所以です。

そして、

過去・現在・未来が実数時間=実時間なら、

『今、ここ』が複素数時間=虚時間に必然的になります。

なぜならば、

『今、ここ』は過去・現在・未来という水平軸に沿って移動しているからです。

逆に言えば、

過去・現在・未来という水平軸に沿って移動する『今、ここ』は垂直軸に他なりません。

なぜならば、

運動と角運動は常に直角関係を維持するからです。

まさに、

『今、ここ』=垂直世界、

過去・現在・未来=水平世界、

である所以です。

 

21.過去・(現在)・未来の映像世界

過去・(現在)・未来という(実)時間が水平的である理由は、

過去=1瞬前、1秒前、1分前、1時間前、1日前、1週間前、1ヶ月前、1年前、1生前で表現されます。

現在=1瞬、1秒、1分、1時間、1日、1週間、1ヶ月、1年、1生で表現されます。

未来=1瞬後、1秒後、1分後、1時間後、1日後、1週間後、1ヶ月後、1年後、1生後で表現されます。

つまり、

最も近い過去である現在、

最も近い未来である現在、

すなわち、

現在=1瞬、1秒、1分、1時間、1日、1週間、1ヶ月、1年、1生とは、最も近い過去=1瞬前、1秒前、1分前、1時間前、1日前、1週間前、1ヶ月前、1年前、1生前であり、

最も近い未来=1瞬後、1秒後、1分後、1時間後、1日後、1週間後、1ヶ月後、1年後、1生後であるわけです。

つまり、

現在=1瞬、1秒、1分、1時間、1日、1週間、1ヶ月、1年、1生など実在しないわけです。

逆に言えば、

『今、ここ』しか実在しない証明でもあるわけです。

まさに、

『今、ここ』という虚時間の垂直世界こそ実在の世界(現実の世界)に他ならないのです。

一方、

過去・(現在)・未来という実時間の水平世界は映像(夢)の世界に過ぎないのです。

 

22.『今、ここ』が本当の時間

実数時間が経線に沿った水平的運動をするのに対して、

複素数時間は緯線に沿った垂直的運動をする。

そして、

過去・現在・未来が実数時間=実時間なら、

『今、ここ』が複素数時間=虚時間に必然的になる。

なぜならば、

『今、ここ』は過去・現在・未来という水平軸に沿って移動しているからである。

逆に言えば、

過去・現在・未来という水平軸に沿って移動する『今、ここ』は垂直軸に他ならない。

なぜならば、

運動と角運動は常に直角関係を維持するからである。

まさに、

『今、ここ』=垂直世界、

過去・現在・未来=水平世界、

である所以です。

そこで、

地球の北極点と南極点は境界(特異点)なのでしょうか?

経線に沿った運動は子午線、

つまり、

水平運動です。

緯線に沿った運動は仮想線、

つまり、

垂直運動です。

つまり、

北極点と南極点が始点・終点になるのが、

経線に沿った運動は子午線、

つまり、

水平運動です。

一方、

北極点と南極点が始点・終点にならないのが、

緯線に沿った運動は仮想線、

つまり、

垂直運動です。

従って、

実時間では、

北極点と南極点は境界(特異点)になるが、

虚時間では、

北極点と南極点は境界(特異点)にならないのです。

従って、

表面積は有限(5,101X108km2)であるのに、永遠の円回帰運動ができる地球の北極点と南極点は境界(特異点)にならないのです。

つまり、

虚時間である『今、ここ』が本当の時間なのです。

 

23.寝ても起きても夢(映像)のいわゆる現実

実在の世界は、見えない(観測できない)。

映像の世界は、見える(観測できる)。

わたしたち人間が、いわゆる現実と信じている昼間目が覚めている世界は、まさに、見える(観測できる)映像の世界に他ならない。

更に、

わたしたち人間が、いわゆる夢と信じている夜間眠っている世界も、まさに、見える(観測できる)映像の世界に他ならない。

夢を観るとは、映画を鑑賞していることに他ならない。

逆に言えば、

夢を観るとは、映画に出演しているのではない。

言い換えれば、

夢を観ている自分は、しょせん、映画の鑑賞者であって、映画の登場人物ではない。

ところが、

わたしたち人間は、夢を観ている自分が映画の主人公だと勘違いしている。

だから、

夢を夢だと理解できず、現実だと想い込んでしまう。

そして、

夢から覚めたら、現実と想っていたことが、夢であったことに気づく。

まさに、

過去や未来に想いを馳せるとは、映画(夢)を観ている世界を現実の世界と勘違いすることに他ならない。

従って、

予想不可能な世界は、『今、ここ』という虚時間の垂直世界に他ならない。

逆に言えば、

予想可能な世界は、過去・(現在)・未来に想いを馳せる実時間の水平世界に他ならない。

まさに、

ゼロの世界とは、『今、ここ』という虚時間の垂直世界に他ならない。

では、

この事実は一体何を意味しているのでしょうか?

地球の表面で生活しているわたしたち人間は、

時速1666kmのスピードで走る(自転する)地球号に乗車していて、窓外に見える景色(光景)こそが、現在という時間(=空間)であり、現在の前後に過ぎ去った過去という時間(=空間)と未だ来ぬ未来という時間(=空間)が繋がっているのです。

従って、

時速1666kmのスピードで走る(自転する)地球号に乗車している自分(=わたしたち人間)は、過去・(現在)・未来という時空の世界とは無縁の世界に存在しているわけです。

言い換えれば、

時速1666kmのスピードで走る(自転する)地球号の車内こそが、『今、ここ』という実在の世界なのです。

まさに、

過去や未来に想いを馳せるとは、映画(夢)を観ている世界を現実の世界と勘違いすることに他ならないのです。

 

24.最後の最後の素数

実在の世界は、見えない(観測できない)。

映像の世界は、見える(観測できる)。

言い換えれば、

最後の自然数がないから、nの次は(n+1)と表現できる。

つまり、

自然数=nで表現できる。

n=1なら、その自然数は1である。

n=∞なら、その自然数は∞である。

一方、

最後の素数があるから、nの次が表現できない。

まさに、

素数には最後がある。

つまり、

最後がある素数は、

2の次は3であり、3の次は5であり、5の次は7であり、7の次は11であり・・・nの次は予想不可能であるわけです。

つまり、

2は、n=1の条件で2Xn+1X(n‐1)=2で表現できます。

3は、n=1の条件で2Xn+1Xn=3で表現できます。

従って、

素数2と素数3は同じである。

そして、

5は、n=2の条件で2Xn+1X(n‐1)=5で表現できます。

7は、n=3の条件で2Xn+1X(n‐2)=7で表現できます。

11は、n=4の条件で2Xn+1X(n‐1)=7で表現できます。

13は、n=5の条件で2Xn+1X(n‐2)=13で表現できます。

17は、n=6の条件で2Xn+1X(n‐1)=17で表現できます。

19は、n=7の条件で2Xn+1X(n‐2)=19で表現できます。

23は、n=8の条件で2Xn+1X(n‐1)=23で表現できます。

ところが、

n=9の条件で表現できる素数はない。

従って、

最初の最後の素数は、23ということになります。

そして、

29は、n=10の条件で2Xn+1X(n‐1)=29で表現できます。

31は、n=11の条件で2Xn+1X(n‐2)=31で表現できます。

ところが、

n=12の条件で表現できる素数はない。

従って、

二番目の最後の素数は、31ということになります。

そして、

37は、n=13の条件で2Xn+1X(n‐2)=37で表現できます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

といった具合に、

三番目の最後の素数、

四番目の最後の素数、

・・・・・・・・・・・・・・・・・。

n番目の最後の素数が、

最後の最後の素数ということになります。

ところが、

nが何番目なのかは、永遠にわからないのです。

なぜならば、

nは「人間原理」の外の世界だからです。

言い換えれば、

わたしたち人間が観測し得ない世界だからです。

だが、

最後の最後の素数は必ずあるはずです。

なぜならば、

最初の最後の素数は23のように、

二番目の最後の素数は31のように、

三番目の最後の素数、

四番目の最後の素数、

・・・・・・・・・・・・・・・・・、

n番目の最後の最後の素数、

は必ずあるからです。

 

25.夢に気づく=目が覚める

実在する自分は見えない(観測できない)が、映像である他人は見える(観測できる)。

まさに、

実在の世界は、見えない(観測できない)。

映像の世界は、見える(観測できる)。

わたしたち人間が、いわゆる現実と信じている昼間目が覚めている世界は、まさに、見える(観測できる)映像の世界に他ならないのです。

更に、

わたしたち人間が、いわゆる夢と信じている夜間眠っている世界も、まさに、見える(観測できる)映像の世界に他ならないのです。

夢を観るとは、映画を鑑賞していることに他ならない。

逆に言えば、

夢を観るとは、映画に出演しているのではない。

言い換えれば、

夢を観ている自分は、しょせん、映画の鑑賞者であって、映画の登場人物ではないのです。

ところが、

わたしたち人間は、夢を観ている自分が映画の主人公だと勘違いしているのです。

だから、

夢を夢だと理解できず、現実だと想い込んでしまうわけです。

そして、

夢から覚めたら、現実と想っていたことが、夢であったことに気づくのです。

逆に言えば、

夢を夢だと気づいた瞬間、夢から覚める、つまり、目が覚めるのです。

まさに、

過去や未来に想いを馳せるとは、映画(夢)を観ている世界を現実の世界と勘違いすることに他ならないのです。

従って、

予想不可能な世界は、『今、ここ』という虚時間の垂直世界に他ならないのです。

逆に言えば、

予想可能な世界は、過去・(現在)・未来に想いを馳せる実時間の水平世界に他ならないのです。

まさに、

ゼロの世界とは、『今、ここ』という虚時間の垂直世界に他ならないのです。

 

26.夢に気づく=目が覚める=意識する

夢から覚めたら、現実と想っていたことが、夢であったことに気づく。

逆に言えば、

夢を夢だと気づいた瞬間、夢から覚める、つまり、目が覚める。

まさに、

わたしたち人間は、

寝ている夜間も、起きている昼間も、目覚めていない証左です。

従って、

夢から覚めたら、現実と想っていたことが、夢であったことに気づくことは、生きることの意味を理解することに他ならないのです。

逆に言えば、

夢を夢だと気づいた瞬間、夢から覚める、つまり、目が覚めることに気づくことは、死ぬことの意味を理解することに他ならないのです。

ところが、

わたしたち人間は、

生きることの意味は理解しているはずです。

一方、

わたしたち人間は、

死ぬことの意味を理解していないのは間違いありません。

まさに、

わたしたち人間は、

自己矛盾も甚だしいのです。

なぜならば、

生きることの意味と死ぬことの意味とは同じだからです。

だから、

起きている昼間を、夢だと気づけず、いわゆる現実だと勘違いしているのです。

まさに、

わたしたち人間は、

起きていても、意識は眠っている証左です。

 

27.割り切り不能力=潜在能力

一般人は、π(円周率)=3.14までしか知らないが、

専門家は、π(円周率)=3.14159263587932384・・・まで知っている違いに過ぎず、

結局の処、

誰も最後まで知らない。

この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?

割り切った数(π=3.14)は、

予想可能数だが、

割り切らなかった数(π=3.14159263587932384・・・)は、

予想不可能数であることを示唆しているのです。

まさに、

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、個人の主観に委ねられている。

つまり、

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、

ひとり一人の人間(個人)の五感能力に委ねられている。

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、

ひとり一人の人間(個人)の潜在能力の発揮度に委ねられている。

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、

ひとり一人の人間(個人)の知性度に委ねられている。

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、

ひとり一人の人間(個人)の記憶度に委ねられている。

従って、

何処までの素数がわかるか?の問題も、

何処までの映像が見えるか(観測できるか)?の問題も、

ひとり一人の人間(個人)の五感能力に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の潜在能力の発揮度に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の知性度に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の記憶度に委ねられている。

詰まる処、

ひとり一人の人間の割り切り能力に委ねられているのです。

逆に言えば、

五感能力とは、割り切り不能力に他ならないのです。

詰まる処、

潜在能力の発揮度とは、割り切り不能力に他ならないのです。

詰まる処、

知性度とは、割り切り不能力に他ならないのです。

詰まる処、

記憶度とは、割り切り不能力に他ならないのです。

まさに、

割り切り能力とは、

見切り能力に他ならないのです。

割り切り能力とは、

聞き切り能力に他ならないのです。

割り切り能力とは、

匂い切り能力に他ならないのです。

割り切り能力とは、

味わい切り能力に他ならないのです。

割り切り能力とは、

触れあい切り能力に他ならないのです。

 

28.科学・宗教は自己矛盾の極み

個人の主観とは、

部分観に他なりません。

ところが、

客観性を追求する科学が、

人間原理を提唱する。

まさに、

科学とは、しょせん、一個人の主観に他ならない。

一方、

科学に対峙する宗教は飽くまで主観の問題と主張する。

そして、

宗教は必ず徒党を組む。

つまり、

組織化する。

つまり、

全体観を主張する。

ところが、

全体感の全体感たる所以は全体感にあって全体観ではない。

まさに、

宗教は主観が組織化したものに他ならない。

そして、

主観が組織化した世界は、疑心暗鬼の世界に他ならない。

まさに、

現代社会の疑心暗鬼の風潮は、個人の主観が組織化したものに他ならない。

だから、

一人で何もできないのに、“自分さえよかったらいい!”という考え方に凝り固まっているのです。

まさに、

割り切れない素数=自然社会

割り切れる自然数(合成数)=人間社会

まさに、

自己矛盾も甚だしいわけです。

自然数=素数+合成数、

つまり、

人工数。

まさに、

自己矛盾も甚だしいわけです。

 

29.科学 & 哲学

スティーブン・ホーキングが彼の著書(「ホ‐キング宇宙を語る」)の締め括りで下記のようなことを云っています。

「今日まで、科学者はずっと、宇宙が何であるかを説明する新しい理論の展開に心を奪われていて、なぜと問うことができないでいる。

一方、なぜと問うことを商売にしている人たち、つまり哲学者は科学理論の進歩についていけないでいる。

十八世紀には、哲学者は科学を含めた人間の知識の全体を自分たちの持ち場と見なし、宇宙にははじまりがあるか、などといった問題を論じたのだった。

しかし、十九世紀と二十世紀には、科学は哲学者、いや少数の専門家以外のだれにとっても、あまりにも技術的、数学的になりすぎた。

哲学者は探求範囲を大幅に縮小し、今世紀のもっとも有名な哲学者であるヴィトゲンシュタインが、「哲学に残された唯一の任務は言語の分析である」と言うほどになった。

アリストテレスからカントに至る哲学の偉大な伝統からの、これは何という凋落ぶりだろう。

しかし、もしわれわれが完全な理論を発見すれば、その原理の大筋は少数の科学者だけでなく、あらゆる人にもやがて理解可能となるはずだ。

そのときには、われわれすべて-哲学者も、科学者も、ただの人たちも-が、われわれと宇宙が存在しているのはなぜか、という問題の議論に参加できるようになるだろう。

もしそれに、対する答えが見いだせれば、それは人間の理性の究極的な勝利となるだろう。

なぜなら、そのとき、神の心をわれわれは知るのだから」

 

まさに、

二十一世紀は、

我々ただの人たちが、哲学者から、科学者から、人間と宇宙の問題を議論する主役を取って替わる世紀なのである。

 

30.潜在能力の正体

割り切れない素数=自然社会

まさに、

割り切れない社会=自然社会、

に他なりません。

一方、

割り切れる自然数=人間社会

まさに、

割り切れる社会=人間社会、

に他なりません。

ところが、

割り切れる自然数とは、

自然数=素数+合成数、

で構成されています。

つまり、

自然数とは、

素数=割り切れない数、

と、

合成数=割り切れる数、

で構成されています。

そして、

自然数の特徴は、

自然数の数が小さい間は、

素数=割り切れない数、

が多い。

合成数=割り切れる数、

が少ない。

ところが、

自然数の数が大きくなればなるほど、

素数=割り切れない数、

が減少する。

合成数=割り切れる数、

が増加する。

まさに、

自然社会の特徴は、

すべてが割り切れないわけです。

まさに、

自然社会は、

一様(一元論)の世界に他なりません。

一方、

人間社会の特徴は、

割り切れない面が多く、割り切れる面が少ないわけです。

まさに、

人間社会は、

両面(二元論)の世界に他ならない。

ところが、

人間の数が大きくなればなるほど、

割り切れない面が減少し、割り切れる面が増加する。

これは一体何を示唆しているのでしょうか?

まさに、

自然社会は、

100%割り切り不能力の世界に他ならないのです。

一方、

人間社会は、

割り切り能力と割り切り不能力が混在した世界なのです。

まさに、

割り切り不能力こそ、潜在能力に他ならないのです。

逆に言えば、

割り切り能力こそが、潜在能力を減少させているのです。

 

31.特異点の正体

実時間では、

北極点と南極点は境界(特異点)になるが、

虚時間では、

北極点と南極点は境界(特異点)にならない。

この事実は一体何を意味しているのでしょうか?

前述したように、

有限の世界は、境界が(特異点が)無い。

一方、

無限の世界は、境界が(特異点が)有る。

まさに、

有限の世界は無い。

無限の世界は有る。

では、

一体何が有るのでしょうか?

では、

一体何が無いのでしょうか?

まさに、

有限の世界は静止が無い。

無限の世界は静止が有る。

従って、

境界(特異点)とは静止に他ならないのです。

言い換えれば、

静止が実在に他ならないのです。

そして、

運動が映像に他ならないのです。

まさに、

“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の世界”こそが、実在の世界に他ならないのです。

そして、

“運動の光と音と臭と味と触覚の世界”こそが、映像の世界に他ならないのです。

言い換えれば、

“静止の無五感の世界”こそが、実在の世界に他ならないのです。

そして、

“運動の五感の世界”こそが、映像の世界に他ならないのです。

言い換えれば、

“静止の無私の世界”こそが、実在の世界に他ならないのです。

そして、

“運動の私の世界”こそが、映像の世界に他ならないのです。

従って、

境界(特異点)とは、無私に他ならないのです。

従って、

境界(特異点)とは、死に他ならないのです。

従って、

死とは、無私に他ならないのです。

まさに、

「死」と「私」とは反義語に他ならないのです。

 

32.遠い宇宙観から高い(深い)宇宙観へ

スティーブン・ホーキングの言葉を思い出してみましょう。

 

「十八世紀には、哲学者は科学を含めた人間の知識の全体を自分たちの持ち場と見なし、宇宙にははじまりがあるか、などといった問題を論じたのだった。

しかし、十九世紀と二十世紀には、科学は哲学者、いや少数の専門家以外のだれにとっても、あまりにも技術的、数学的になりすぎた」

 

まさに、

彼が云うところの宇宙とは、

“運動の光と音と臭と味と触覚の世界”の映像宇宙に他ならないのです。

まさに、

彼が云うところの宇宙とは、

“運動の五感の世界”の映像宇宙に他ならないのです。

まさに、

彼が云うところの宇宙とは、

“運動の私の世界”の映像宇宙に他ならないのです。

ところが、

わたしたち人間が実在している宇宙とは、

“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の世界”の実在宇宙に他ならないのです。

ところが、

わたしたち人間が実在している宇宙とは、

“静止の無五感の世界”の実在宇宙に他ならないのです。

ところが、

わたしたち人間が実在している宇宙とは、

“静止の無私の世界”の実在宇宙に他ならないのです。

まさに、

現代科学者は本末転倒している。

つまり、

「あまりにも技術的、数学的」とは、

過去・現在・未来という水平世界の「あまりにも遠い」ことを、「あまりにも技術的、数学的」と云っているだけで、

『今、ここ』という垂直世界の「より高い(深い)」ことに関しては、「あまりにも無知」なのです。

ただそれだけの思い違いです。

二十一世紀のキーワードは、

「より高い(深い)宇宙観(世界観)」です。

 

33.水平宇宙観

十九世紀と二十世紀には、科学は哲学者、いや少数の専門家以外のだれにとっても、あまりにも技術的、数学的になりすぎた。

言い換えれば、

現代科学者が水平世界観を助長させてきた張本人であるわけです。

更に言い換えれば、

現代科学者が、

男性社会を頂点にして、「宗教と科学」と「支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会」で底辺を構成するトライアングル(三角形)構造の社会を生み出した張本人に他ならないのです。

まさに、

現代科学者は圧倒的に男性が多い所以です。

更に、

現代科学者が、

悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の人間社会を生み出した張本人に他ならないのです。

差別・不条理・戦争を生み出した張本人に他ならないのです。

まさに、

原爆を生んだ現代科学者は男性である所以です。

なぜならば、

現代科学者が志向する「あまりにも技術的、数学的」が、

過去・現在・未来という水平世界を助長させた元凶であるからです。

言い換えれば、

現代科学者が志向する「あまりにも技術的、数学的」とは、

わたしたち人間が、

取り返すことが不可能な過ぎ去った過去、

や、

引き寄せることが不可能な未だ来ぬ未来、

に想いを馳せることを助長させた最大の元凶であるからです。

まさに、

文明(科学者)とは、

わたしたち人間社会に、

生活の利便性を提供してくれた功的側面の反対給付として、

悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖、

差別・不条理・戦争、

といった罪的側面を生み出した張本人に他ならなかったのです。

まさに、

文明(宗教者)とは、

わたしたち人間社会に、

生活の利便性を提供してくれた功的側面の反対給付として、

悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖、

差別・不条理・戦争、

といった罪的側面を生み出した張本人に他ならなかったのです。

そして、

その最大の鍵が、

取り返すことが不可能な過ぎ去った過去、

や、

引き寄せることが不可能な未だ来ぬ未来、

に想いを馳せることを助長させた点にあります。

つまり、

過去・現在・未来という水平世界を助長させたからです。

まさに、

水平宇宙観が、

実現不可能な映像世界を助長させたのです。

 

34.垂直宇宙観

スティーブン・ホーキングの言葉を思い出してみましょう。

 

「しかし、もしわれわれが完全な理論を発見すれば、その原理の大筋は少数の科学者だけでなく、あらゆる人にもやがて理解可能となるはずだ。

そのときには、われわれすべて-哲学者も、科学者も、ただの人たちも-が、われわれと宇宙が存在しているのはなぜか、という問題の議論に参加できるようになるだろう」

 

まさに、

彼が云うところの、“あらゆる人にもやがて理解可能”な宇宙とは、

“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の世界”の実在宇宙に他ならないのです。

まさに、

彼が云うところの、“あらゆる人にもやがて理解可能”な宇宙とは、

“静止の無五感の世界”の実在宇宙に他ならないのです。

まさに、

彼が云うところの、“あらゆる人にもやがて理解可能”な宇宙とは、

“静止の無私の世界”の実在宇宙に他ならないのです。

まさに、

現代科学者は本末転倒している。

つまり、

「あまりにも技術的、数学的」とは、

過去・現在・未来という水平世界の「あまりにも遠い」ことを、「あまりにも技術的、数学的」と云っているだけで、

『今、ここ』という垂直世界の「より高い(深い)」ことに関しては、「あまりにも無知」なのです。

ただそれだけの思い違いです。

二十一世紀のキーワードは、

「より高い(深い)宇宙観(世界観)」です。

まさに、

「より高い(深い)宇宙観(世界観)」とは、

垂直宇宙観に他なりません。

 

35.垂直宇宙観=『今、ここ』の宇宙

もしわれわれが完全な理論を発見すれば、その原理の大筋は少数の科学者だけでなく、あらゆる人にもやがて理解可能となるはずだ。

そのときには、われわれすべて-哲学者も、科学者も、ただの人たちも-が、われわれと宇宙が存在しているのはなぜか、という問題の議論に参加できるようになるだろう。

言い換えれば、

われわれすべて-哲学者も、科学者も、ただの人たちも-が垂直世界観を体得できるのです。

更に言い換えれば、

われわれすべて-哲学者も、科学者も、ただの人たちも-が、

女性社会を中心にして、「宗教と科学を超えた価値観」と「支配・被支配二層構造と世襲・相続の差別社会を超えた価値観」と「悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖を超えた価値観」と「差別・不条理・戦争のない社会」を四辺にしたスクウエアー(正方形)構造の社会を生み出すことができるのです。

まさに、

現代科学者には圧倒的に女性が少ない所以です。

更に、

われわれすべて-哲学者も、科学者も、ただの人たちも-が、

悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖の一生を解放できるのです。

差別・不条理・戦争のない人間社会を生み出すことができるのです。

まさに、

原爆を生んだ現代科学者は女性ではない所以です。

なぜならば、

われわれすべて-哲学者も、科学者も、ただの人たちも-が、われわれと宇宙が存在しているのはなぜか、という問題の議論に参加できるようになることこそが、

『今、ここ』という垂直世界を実現できる唯一の道だからです。

言い換えれば、

われわれすべて-哲学者も、科学者も、ただの人たちも-が、われわれと宇宙が存在しているのはなぜか、という問題の議論に参加できるようになることこそが、

わたしたち人間を、

『今、ここ』を生きることを実現させてくれる唯一の道だからです。

まさに、

われわれすべて-哲学者も、科学者も、ただの人たちも-が、われわれと宇宙が存在しているのはなぜか、という問題の議論に参加できるようになることこそが、

わたしたち人間社会から、

悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖、

差別・不条理・戦争、

といった罪的側面を解消してくれる唯一の道だからです。

そして、

その最大の鍵が、

『今、ここ』を生き切ることに他ならないのです。

まさに、

垂直宇宙観が、

実在世界を実現できる唯一の道です。

 

36.最後の素数=最後の未来=死

「最後のない未来」の世界では、

途中の未来は予想可能である。

なぜならば、

予想可能な自然数はnで無限に表現できるからだ。

つまり、

最後のない無限の数である。

一方、

「最後のある未来」の世界では、

途中の未来は予想不可能である。

予想不可能な素数はnで表現できない。

つまり、

最後のある有限の数である。

言い換えれば、

「死のない」世界では、

途中の未来は予想可能である。

なぜならば、

予想可能な自然数はnで無限に表現できるからだ。

つまり、

死のない無限の世界である。

一方、

「死のある」世界では、

途中の未来は予想不可能である。

予想不可能な素数はnで表現できないからだ。

つまり、

死のある有限の世界である。

まさに、

わたしたち人間が、

最後の未来である死を知ったのに、

途中の未来を知ることができない所以は、

最後のある有限の素数の世界(宇宙)に実在しているからだ。

まさに、

第二十四章【最後の最後の素数】がそのことを証明しているのです。

実在の世界は、見えない(観測できない)。

映像の世界は、見える(観測できる)。

言い換えれば、

最後の自然数がないから、nの次は(n+1)と表現できる。

つまり、

自然数=nで表現できる。

n=1なら、その自然数は1である。

n=∞なら、その自然数は∞である。

一方、

最後の素数があるから、nの次が表現できない。

まさに、

素数には最後がある。

つまり、

最後がある素数は、

2の次は3であり、3の次は5であり、5の次は7であり、7の次は11であり・・・nの次は予想不可能であるわけです。

つまり、

2は、n=1の条件で2Xn+1X(n‐1)=2で表現できます。

3は、n=1の条件で2Xn+1Xn=3で表現できます。

従って、

素数2と素数3は同じである。

そして、

5は、n=2の条件で2Xn+1X(n‐1)=5で表現できます。

7は、n=3の条件で2Xn+1X(n‐2)=7で表現できます。

11は、n=4の条件で2Xn+1X(n‐1)=7で表現できます。

13は、n=5の条件で2Xn+1X(n‐2)=13で表現できます。

17は、n=6の条件で2Xn+1X(n‐1)=17で表現できます。

19は、n=7の条件で2Xn+1X(n‐2)=19で表現できます。

23は、n=8の条件で2Xn+1X(n‐1)=23で表現できます。

ところが、

n=9の条件で表現できる素数はない。

従って、

最初の最後の素数は、23ということになります。

そして、

29は、n=10の条件で2Xn+1X(n‐1)=29で表現できます。

31は、n=11の条件で2Xn+1X(n‐2)=31で表現できます。

ところが、

n=12の条件で表現できる素数はない。

従って、

二番目の最後の素数は、31ということになります。

そして、

37は、n=13の条件で2Xn+1X(n‐2)=37で表現できます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

といった具合に、

三番目の最後の素数、

四番目の最後の素数、

・・・・・・・・・・・・・・・・・。

n番目の最後の素数が、

最後の最後の素数ということになります。

ところが、

nが何番目なのかは、永遠にわからないのです。

なぜならば、

nは「人間原理」の外の世界だからです。

言い換えれば、

わたしたち人間が観測し得ない世界だからです。

だが、

最後の最後の素数は必ずあるはずです。

なぜならば、

最初の最後の素数は23のように、

二番目の最後の素数は31のように、

三番目の最後の素数、

四番目の最後の素数、

・・・・・・・・・・・・・・・・・、

n番目の最後の最後の素数、

は必ずあるからです。

 

37.科学者=不完全な知性の持ち主

「最後のない未来」の世界では、

途中の未来は予想可能である。

なぜならば、

予想可能な自然数はnで無限に表現できるからだ。

つまり、

最後のない無限の数である。

一方、

「最後のある未来」の世界では、

途中の未来は予想不可能である。

予想不可能な素数はnで表現できない。

つまり、

最後のある有限の数である。

言い換えれば、

「死のない」世界では、

途中の未来は予想可能である。

なぜならば、

予想可能な自然数はnで無限に表現できるからだ。

つまり、

死のない無限の世界である。

一方、

「死のある」世界では、

途中の未来は予想不可能である。

予想不可能な素数はnで表現できないからだ。

つまり、

死のある有限の世界である。

まさに、

わたしたち人間が、

最後の未来である死を知ったのに、

途中の未来を知ることができない所以は、

最後のある有限の素数の世界(宇宙)に実在しているからだ。

この事実は一体何を意味しているのでしょうか?

つまり、

科学者たちの“あまりにも技術的、数学的”とは、

過剰な知識に他ならない。

言い換えれば、

過剰な不完全な知性に他ならない。

まさに、

知識とは不完全な知性に他ならない。

一方、

完全な知性とは、知恵と言い換えてもいいでしょう。

従って、

不完全な知性(知識)は水平展開する。

一方、

完全な知性(知恵)は垂直展開する。

まさに、

科学者のような知識過剰の連中は、水平展開の生き方をする不完全な知性の人間に他ならないのです。

 

38.宗教者=科学者=不完全な知性の持ち主

「最後のない未来」の世界では、

途中の未来は予想可能である。

なぜならば、

予想可能な自然数はnで無限に表現できるからだ。

つまり、

最後のない無限の数である。

一方、

「最後のある未来」の世界では、

途中の未来は予想不可能である。

予想不可能な素数はnで表現できない。

つまり、

最後のある有限の数である。

言い換えれば、

「死のない」世界では、

途中の未来は予想可能である。

なぜならば、

予想可能な自然数はnで無限に表現できるからだ。

つまり、

死のない無限の世界である。

一方、

「死のある」世界では、

途中の未来は予想不可能である。

予想不可能な素数はnで表現できないからだ。

つまり、

死のある有限の世界である。

まさに、

わたしたち人間が、

最後の未来である死を知ったのに、

途中の未来を知ることができない所以は、

最後のある有限の素数の世界(宇宙)に実在しているからだ。

この事実は一体何を意味しているのでしょうか?

宗教が主張する輪廻転生説に他ならない。

つまり、

死(終点)などなく、何処までも、輪廻する。

科学者的に言えば、

誕生(始点)・死(終点)などなく、何処までも円回帰運動する円周に他ならない。

まさに、

宗教と科学は一枚のコインに他ならない。

言い換えれば、

まさに、

宗教と科学は同じ穴の狢に他ならない。

 

39.自己矛盾に満ちた学問

物理学、天文学では、

『三本の時間の矢』という考え方があります。

一本目の時間の矢が、

心理学的時間の矢と言って、

時間の経過と共に、過去→現在→未来へと流れていく時間の矢で、未来→現在→過去へと流れることは一切ない。

まさに、

わたしたち人間が当然のことと信じ込んでいる、いわゆる「時間」に他なりません。

過ぎ去った過去は、取り返すことはできない。

未だ来ぬ未来は、引き寄せることはできない。

 言い換えれば、

「誕生のある」世界では、

途中の過去は予想可能である。

つまり、

「最初のある過去」の世界では、

途中の過去は予想可能である。

一方、

「死のある」世界では、

途中の未来は予想不可能である。

つまり、

「最後のある未来」の世界では、

途中の未来は予想不可能である。

従って、

わたしたち人間が信じて止まなかった、『過去・現在・未来』という、いわゆる時間は自己矛盾に満ちた考え方であったのです。

従って、

物理学、天文学は、自己矛盾に満ちた考え方であったのです。

 

40.必然性 & 偶然性

「最後のない未来」の世界では、

途中の未来は予想可能である。

なぜならば、

予想可能な自然数はnで無限に表現できるからだ。

つまり、

最後のない無限の数である。

一方、

「最後のある未来」の世界では、

途中の未来は予想不可能である。

予想不可能な素数はnで表現できない。

ところが、

現代物理学、天文学では、

未だ来ぬ未来は、引き寄せることはできない。

言い換えれば、

「最後のある未来」の世界では、

途中の未来は予想不可能である。

逆に言えば、

「最後(死)のない未来」の世界では、

途中の未来は予想可能なはずである。

つまり、

輪廻転生する世界では、

途中の未来は予想可能なはずである。

では、

わたしたち人間の途中の未来は予想可能なのだろうか?

言い換えれば、

すべては必然であることになる。

従って、

輪廻転生するなら、すべては必然である。

輪廻転生しないなら、すべては偶然である。

言い換えれば、

素数の世界なら、すべては偶然である。

自然数の世界なら、すべては必然である。

 

41.すべてが偶然

素数の世界なら、すべては偶然である。

自然数の世界なら、すべては必然である。

ところが、

自然数=素数 + 合成数で構成されている。

言い換えれば、

必然と偶然の混在する世界=すべて偶然の世界 + すべて必然の世界ということになります。

そして、

素数=自然数 - 合成数。

従って、

すべて偶然の世界=必然と偶然の混在する世界 - すべて必然の世界、

と言い換えてもいいでしょう。

つまり、

宇宙(地球=自然社会)=すべて偶然の世界。

人間社会=必然と偶然の混在する世界。

従って、

すべて必然の世界とは、

宗教・科学が生み出した教義・理論に他なりません。

まさに、

量子力学も一般相対論も在りもしない理論に他なりません。

ところが、

わたしたち人間は、

量子力学や一般相対論を絶対真理だと盲信してきたわけです。

まさに、

キリスト教徒が聖書を盲信してきたのと同じレベルであるわけです。

イスラム教徒がコーランを盲信してきたのと同じレベルであるわけです。

そして、

いまだに、

差別・不条理・戦争を繰り返しているのです。

従って、

すべてが偶然である=鍵なのです。

 

42.宗教・科学では真理を見出すことはできない

自然数=素数 + 合成数

言い換えれば、

必然と偶然の混在する世界=すべて偶然の世界 + すべて必然の世界

更に言い換えれば、

人間社会=宇宙(地球=自然社会) + 宗教・科学の世界

まさに、

人間社会とは、

必然と偶然の混在する世界に他なりません。

まさに、

宇宙(地球=自然社会)とは、

すべて偶然の世界に他なりません。

まさに、

宗教・科学の世界とは、

すべて必然の世界に他なりません。

では、

すべてが必然の世界とは、

一体どんな世界なのでしょうか?

まさに、

合成数の世界に他なりません。

では、

合成数の世界とは、

一体どんな世界なのでしょうか?

まさに、

割り切れる数の世界に他なりません。

そして、

割り切れる数は、

わたしたち人間、特に、宗教・科学が捏造した数に他なりません。

従って、

宗教・科学によって、宇宙(地球=自然社会)を表現することは不可能なのです。

 

43.宗教・科学はしょせん主観

すべてが必然の世界とは、

一体どんな世界なのでしょうか?

まさに、

合成数の世界に他なりません。

では、

合成数の世界とは、

一体どんな世界なのでしょうか?

まさに、

割り切れる数の世界に他なりません。

 

そこで、

割り切り不能力=潜在能力

を思い出してください。

 

割り切り不能力=潜在能力

一般人は、π(円周率)=3.14までしか知らないが、

専門家は、π(円周率)=3.14159263587932384・・・まで知っている違いに過ぎず、

結局の処、

誰も最後まで知らない。

この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?

割り切った数(π=3.14)は、

予想可能数だが、

割り切らなかった数(π=3.14159263587932384・・・)は、

予想不可能数であることを示唆しているのです。

まさに、

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、個人の主観に委ねられている。

つまり、

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、

ひとり一人の人間(個人)の五感能力に委ねられている。

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、

ひとり一人の人間(個人)の潜在能力の発揮度に委ねられている。

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、

ひとり一人の人間(個人)の知性度に委ねられている。

何処までのπ(円周率)がわかるか?の問題は、

ひとり一人の人間(個人)の記憶度に委ねられている。

従って、

何処までの素数がわかるか?の問題も、

何処までの映像が見えるか(観測できるか)?の問題も、

ひとり一人の人間(個人)の五感能力に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の潜在能力の発揮度に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の知性度に委ねられている。

ひとり一人の人間(個人)の記憶度に委ねられている。

詰まる処、

ひとり一人の人間の割り切り能力に委ねられているのです。

逆に言えば、

五感能力とは、割り切り不能力に他ならないのです。

詰まる処、

潜在能力の発揮度とは、割り切り不能力に他ならないのです。

詰まる処、

知性度とは、割り切り不能力に他ならないのです。

詰まる処、

記憶度とは、割り切り不能力に他ならないのです。

まさに、

割り切り能力とは、

見切り能力に他ならないのです。

割り切り能力とは、

聞き切り能力に他ならないのです。

割り切り能力とは、

匂い切り能力に他ならないのです。

割り切り能力とは、

味わい切り能力に他ならないのです。

割り切り能力とは、

触れあい切り能力に他ならないのです。

 

まさに、

割り切れる数の世界=潜在能力を100%発揮できない世界=不完全な知性の世界=不完全な記憶の世界=すべてが必然の世界=主観の世界=宗教・科学の世界に他ならないのです。

一方、

割り切れない数の世界==潜在能力を100%発揮できる世界=完全な知性の世界=完全な記憶の世界=すべてが偶然の世界=客観の世界=宇宙(地球=自然社会)の世界に他ならないのです。

 

44.不可能とは可能の不在概念

割り切れる数の世界=潜在能力を100%発揮できない世界=不完全な知性の世界=不完全な記憶の世界=すべてが必然の世界=主観の世界=宗教・科学の世界に他ならない。

一方、

割り切れない数の世界==潜在能力を100%発揮できる世界=完全な知性の世界=完全な記憶の世界=すべてが偶然の世界=客観の世界=宇宙(地球=自然社会)の世界に他ならない。

まさに、

割り切り能力とは、

見切り能力に他ならない。

割り切り能力とは、

聞き切り能力に他ならない。

割り切り能力とは、

匂い切り能力に他ならない。

割り切り能力とは、

味わい切り能力に他ならない。

割り切り能力とは、

触れあい切り能力に他ならない。

従って、

割り切るとは、

無限をあえて有限にすることに他ならない。

割り切れないとは、

無限のままにしておくことに他ならない。

従って、

割り切れる数の世界=潜在能力を100%発揮できない世界=不完全な知性の世界=不完全な記憶の世界=すべてが必然の世界=主観の世界=宗教・科学の世界とは、

能力(潜在能力・五感能力・記憶力・知力)が有限の(限定される)世界のことに他ならない。

一方、

割り切れない数の世界==潜在能力を100%発揮できる世界=完全な知性の世界=完全な記憶の世界=すべてが偶然の世界=客観の世界=宇宙(地球=自然社会)の世界とは、

能力(潜在能力・五感能力・記憶力・知力)が無限の世界のことに他ならない。

まさに、

わたしたち人間が、潜在能力を100%発揮できない理由は、

自分の能力(潜在能力・五感能力・記憶力・知力)をあえて削ぎ落としているからです。

言い換えれば、

わたしたち人間が、潜在能力を100%発揮できない理由は、

自分の能力(潜在能力・五感能力・記憶力・知力)を割り切ってしまうからです。

 

45.すべてが可能な実在の世界

わたしたち人間が、潜在能力を100%発揮できない理由は、

自分の能力(潜在能力・五感能力・記憶力・知力)をあえて削ぎ落としているからです。

言い換えれば、

わたしたち人間が、潜在能力を100%発揮できない理由は、

自分の能力(潜在能力・五感能力・記憶力・知力)を割り切ってしまうからです。

まさに、

可能と思えば、

すべては可能になる。

不可能と思えば、

すべてが不可能になる。

言い換えれば、

『今、ここ』では、

すべては可能になる。

過去・現在・未来に想いを馳せれば、

すべては不可能になる。

なぜならば、

『今、ここ』では、

想い=行動になるからです。

なぜならば、

過去・現在・未来に想いを馳せれば、

想い=行動にはならないからです。

まさに、

割り切れる数の世界=潜在能力を100%発揮できない世界=不完全な知性の世界=不完全な記憶の世界=すべてが必然の世界=主観の世界=宗教・科学の世界とは、

映像の世界に他なりません。

一方、

割り切れない数の世界==潜在能力を100%発揮できる世界=完全な知性の世界=完全な記憶の世界=すべてが偶然の世界=客観の世界=宇宙(地球=自然社会)の世界とは、

実在の世界に他なりません。

 

46.予想可能=実現不可能

割り切れる数の世界=潜在能力を100%発揮できない世界=不完全な知性の世界=不完全な記憶の世界=すべてが必然の世界=主観の世界=宗教・科学の世界とは、

映像の世界に他ならない。

一方、

割り切れない数の世界==潜在能力を100%発揮できる世界=完全な知性の世界=完全な記憶の世界=すべてが偶然の世界=客観の世界=宇宙(地球=自然社会)の世界とは、

実在の世界に他ならない。

そして、

映像の世界では、

一切が不可能な事象なのです。

一方、

実在の世界では、

不可能な事象など一切ないのです。

つまり、

人間社会では、

一切が不可能な事象なのです。

一方、

自然社会では、

不可能な事象など一切ないのです。

まさに、

不可能な事象など一切ないのが、宇宙の本質なのです。

言い換えれば、

予想可能な割り切る世界(人間社会)では、

一切が不可能な事象なのです。

一方、

予想不可能な割り切れない世界(宇宙)では、

不可能な事象など一切ないのです。

 

47.予想不可能=実現可能

予想可能な割り切る世界(人間社会)では、

一切が不可能な事象なのです。

つまり、

予想可能な世界は、

すべてが実現不可能なのです。

平たく言えば、

予想したことは一切実現しないのです。

一方、

予想不可能な割り切れない世界(宇宙)では、

不可能な事象など一切ないのです。

つまり、

予想不可能な世界は、

すべてが実現可能なのです。

平たく言えば、

予想しないことは一切実現するのです。

では、

予想するとは一体どういうことなのでしょうか?

また、

予想しないということは一体どういうことなのでしょうか?

まさに、

予想するとは、

過去・現在・未来に想いを馳せることに他なりません。

まさに、

予想しないということは、

『今、ここ』を生きることに他なりません。

つまり、

予想不可能=実現可能なのです。

 

48.『今、ここ』を構える

予想可能な世界は、

すべてが実現不可能。

平たく言えば、

予想することは一切実現しない。

この事実も途轍もない真理です。

前章で述べた通り、

予想するとは、

過去・現在・未来に想いを馳せることに他ならない。

つまり、

持ち越し苦労、

若しくは、

取り越し苦労、

することは一切実現しない。

言い換えれば、

構えている時は襲ってこない。

逆に言えば、

構えていない時に襲ってくる。

まさに、

“魔がさす”とはこのことに他ならない。

ただし、

構えている時の状態は、

過去・現在・未来に想いを馳せているのではなく、

『今、ここ』にいるのでなければならない。

 

49.連想 & 集中 & 無心

構えている時の状態は、

過去・現在・未来に想いを馳せているのではなく、

『今、ここ』にいるのでなければならない。

つまり、

『今、ここ』を構えることが鍵になります。

そこで、

過去・現在・未来に想いを馳せている状態と、『今、ここ』を構えている状態の違いを理解しなければなりません。

第四十五章で述べた通り、

可能と思えば、

すべては可能になる。

不可能と思えば、

すべてが不可能になる。

言い換えれば、

『今、ここ』では、

すべては可能になる。

過去・現在・未来に想いを馳せれば、

すべては不可能になる。

なぜならば、

『今、ここ』では、

想い=行動になるからである。

なぜならば、

過去・現在・未来に想いを馳せれば、

想い=行動にはならないからである。

つまり、

構えるという状態は、

想い=行動に移せる準備状態に他なりません。

ところが、

過去・現在・未来に想いを馳せている状態は、

想い=行動に移せる準備状態ではありません。

では、

想い=行動に移せる状態と、想い=行動に移せない状態の違いは何でしょうか?

その答えは、

「想い」の質の理解の中にあります。

つまり、

「想い」には質の差によって3種類の「想い」があります。

つまり、

「想い」=連想のレベル。

「想い」=一点集中のレベル。

「想い」=無心のレベル。

まさに、

過去・現在・未来に想いを馳せる「想い」は連想のレベルに他ならず、「想い」が連想のレベルでは、想い=行動に移せません。

一方、

「想い」=無心のレベルになってはじめて、想い=行動になります。

つまり、

「想い」=一点集中のレベルこそが、『今、ここ』を構える状態に他ならないのです。

従って、

過去・現在・未来に想いを馳せている状態とは、

「想い」=連想のレベルの状態に他ならないのです。

一方、

『今、ここ』にいる状態とは、「想い」=無心のレベルの状態に他ならないのです。

そして、

『今、ここ』を構える状態とは、「想い」=一点集中のレベルの状態に他ならないのです。

 

50.映像宇宙 & 実在宇宙

予想可能=実現不可能=過去・現在・未来に想いを馳せる。

予想不可能=実現可能=『今、ここ』を生きる。

この事実は途轍もない真理です。

ところが、

わたしたち人間は、この事実(真理)をまるで理解していません。

そこで、

新しい切り口で、この事実(真理)を検証してみましょう。

先ず、

過去・現在・未来に想いを馳せるとは、

五感を駆使して運動世界(運動宇宙)を映し出すことに他ならない。

では、

運動世界(運動宇宙)を映し出す元の映写フィルムは、一体何処にあるのでしょうか?

まさに、

五感の介入できない『今、ここ』に実在する静止世界(静止宇宙)が、一枚一枚のフィルム(静止画フィルム)に他ならない。

そして、

一枚一枚のフィルム(静止画フィルム)が積み重なったものこそ、映写フィルムに他ならない。

従って、

現代科学が主張する、137億年の拡がりを持つ運動(膨張)宇宙とは、しょせん、五感が感知する映像宇宙に他ならない。

ところが、

現代科学は、1929年に天文学者ハッブルが赤方偏移する宇宙の観測に成功して、宇宙は膨張していると発表して以来、宇宙は静止しているのではなく、運動しているという説で現代に至っている。

しかし、

問題は観測した事象の捉え方にある。

まさに、

科学と新田哲学の境界線(特異点)がこの点にある。

科学では、

観測できた(見えた)ものは実在し、観測できない(見えない)ものは実在しないという立場に立っている。

一方、

新田哲学では、

観測できた(見えた)ものはしょせん映像であり、観測できない(見えない)ものこそ実在するという立場に立っている。

まさに、

映像世界(映像宇宙)と実在世界(実在宇宙)だ。

つまり、

予想可能=実現不可能=過去・現在・未来に想いを馳せる。

予想不可能=実現可能=『今、ここ』を生きる。

この事実は途轍もない真理です。

 

51.『今、ここ』と現在の交差点

過去・現在・未来に想いを馳せている状態とは、

「想い」=連想のレベルの状態に他ならない。

一方、

『今、ここ』にいる状態とは、「想い」=無心のレベルの状態に他ならない。

そして、

『今、ここ』を構える状態とは、「想い」=一点集中のレベルの状態に他ならない。

つまり、

同じ「想い」でも、その質の差によって、

過去・現在・未来の「現在」にいる状態が、連想状態に他ならない。

一方、

『今、ここ』にいる状態が、無心状態に他ならない。

そして、

過去・現在・未来の「現在」と、『今、ここ』の『今』との間の橋渡しをしている状態が、一点集中状態に他ならない。

従って、

水平世界と垂直世界の交差点こそが、一点集中状態に他ならない。

ところが、

過去・現在・未来に想いを馳せている連想状態の水平世界と、

『今、ここ』にいる垂直世界とは本来交差していません。

しかし、

『今、ここ』を構える一点集中状態が、水平世界の「現在」と垂直世界の『今』との橋渡し役をしてくれる。

その結果、

一切の事象が実現可能になるのである。

まさに、

想い=行動になったときである。

 

52.実現可能→実現→現実

水平世界と垂直世界の交差点こそが、一点集中状態に他ならない。

ところが、

過去・現在・未来に想いを馳せている連想状態の水平世界と、

『今、ここ』にいる垂直世界とは本来交差していない。

しかし、

『今、ここ』を構える一点集中状態が、水平世界の「現在」と垂直世界の『今』との橋渡し役をしてくれる。

その結果、

一切の事象が実現可能になるのである。

まさに、

想い=行動になったときである。

そこで、

実現(可能)とは、未来の事象である。

つまり、

水平世界の「未来」から「現在」への事象移動である。

そして、

想い=行動が可能になる。

しかし、

想い=行動になるためには、

水平世界の「現在」が、『今、ここ』を構える一点集中状態経由で、垂直世界の『今』に移動しなければならない。

その時、

実現可能が実現し現実と化すのである。

まさに、

未来事象の実現可能が、現在事象の実現経由で、『今』事象の現実となるのである。

つまり、

実現可能は、水平世界の未来事象。

実現は、水平世界の現在事象=垂直世界の『今』事象。

現実は、垂直世界の『今、ここ』事象。

まさに、

この過程こそが、すべての事象が現実化するメカニズムなのである。

 

53.水平(映像)世界→垂直(実在)世界への鍵

実現可能は、水平世界の未来事象。

実現は、水平世界の現在事象=垂直世界の『今』事象。

現実は、垂直世界の『今、ここ』事象。

まさに、

この過程こそが、すべての事象が現実化するメカニズムなのである。

つまり、

実現可能な状態から現実化する。

ところが、

『今、ここ』を生きられず、過去・現在・未来に想いを馳せて生きている、つまり、過去の持ち越し苦労をしたり、未来の取り越し苦労をして生きている、わたしたち人間においては、

過去・現在・未来に想いを馳せている連想状態の水平世界と、

『今、ここ』にいる垂直世界とは交差していないのです。

従って、

実現可能な状態から現実化することはできないわけです。

従って、

実現可能な状態から現実化するには、

過去・現在・未来に想いを馳せている連想状態の水平世界と、

『今、ここ』にいる垂直世界とは交差させなければならないわけです。

そして、

『今、ここ』を構える一点集中状態が、水平世界の「現在」と垂直世界の『今』との橋渡し役をしてくれる。

つまり、

水平世界の現在事象=垂直世界の『今』事象にしなければならない。

つまり、

『今、ここ』を構える一点集中状態が鍵なのです。

 

54.『今、ここ』を生きる鍵

『今、ここ』を生きる。

わたしたち人間が唯一できることである。

そして、

他の生きものたちの生き方である。

それがわかっているのに、

わたしたち人間は、ほんの数分も『今、ここ』を生きられず、過去・現在・未来に想いを馳せている。

それがわかっているから、

わたしたち人間は、少しでも『今、ここ』を生きようとするが、ちょっとでも気を緩めると、過去・現在・未来に想いを馳せる自分に戻っている。

そして、

過去・現在・未来に想いを馳せる自分の状態で落ち着いている。

まさに、

歌の文句ではないが、

“生れつき僕たちは、悩み上手に出来ている”

“様々な気がかりが、途切れもなくついてくる”

当たり前のことである。

過去・現在・未来に想いを馳せる自分の状態で落ち着いているのだからである。

つまり、

わたしたち人間は、

四六時中、持ち越し苦労と取り越し苦労しているのである。

まさに、

わかっていながら出来ないのである。

まさに、

『今、ここ』を生きることが正しいことをわかっていながら、過去・現在・未来に想いを馳せる自分の状態で落ち着いているのである。

一体何故でしょうか?

つまり、

過去・現在・未来に想いを馳せている連想状態の水平世界と、

『今、ここ』にいる垂直世界とは交差させなければならないわけだ。

そして、

水平世界の「現在」と垂直世界の『今』との橋渡し役をしてくれる、『今、ここ』を構える一点集中状態になることで、水平世界の現在事象=垂直世界の『今』事象にすればいいのである。

つまり、

『今、ここ』を構える一点集中状態に常に身を置くことである。

 

55.はじめの「想い」

過去・現在・未来に想いを馳せている連想状態の水平世界と、

『今、ここ』にいる垂直世界とを交差させなければならない。

そして、

水平世界の「現在」と垂直世界の『今』との橋渡し役をしてくれる、『今、ここ』を構える一点集中状態になることで、水平世界の現在事象=垂直世界の『今』事象にする。

まさに、

連想状態→一点集中状態。

まさに、

運動状態→静止状態。

つまり、

連想を止めることが鍵であるわけです。

そこで、

連想のメカニズムをよく理解しなければならない。

つまり、

過去・現在・未来に想いを馳せることによって起こる連想状態とは、

いろいろな想いが止めどなく次から次と湧いてくることである。

ところが、

よくよくその想いを振りかえってみると、はじめの「想い」があったはずです。

そして、

はじめの「想い」には、必ず、外的要因があります。

つまり、

きっかけがあります。

ところが、

その後に止めどもなく続く連想は内なる記憶に基づいています。

つまり、

連想には、必ず、内的要因があります。

まさに、

はじめの想い(外的要因)→連想(内的要因)が、

静止状態→運動状態の分岐点であったわけです。

言い換えれば、

垂直世界の『今』事象→水平世界の現在事象の分岐点であったわけです。

従って、

連想状態に陥る前に必ず一点集中状態の機会があったはずです。

まさに、

実在があって、はじめて、映像が映るのです。

従って、

外的要因がきっかけで起こる、はじめの「想い」こそが、『今、ここ』を構える一点集中の機会なのです。

 

56.はじめの「想い」の正体

外的要因がきっかけで起こる、はじめの「想い」。

つまり、

五感が感知する外的要因情報こそが、はじめの「想い」に他なりません。

たとえば、

視覚によって感知した光景の印象が、はじめの「想い」に他なりません。

聴覚によって感知した音の印象が、はじめの「想い」に他なりません。

嗅覚によって感知した匂いの印象が、はじめの「想い」に他なりません。

味覚によって感知した味の印象が、はじめの「想い」に他なりません。

触覚によって感知した触感の印象が、はじめの「想い」に他なりません。

ところが、

これらの感覚には本来、好い悪いの判断はありません。

つまり、

ただの光景であり、

ただの音であり、

ただの匂いであり、

ただ味であり、

ただの触感であるだけです。

ところが、

この後から連想がはじまるわけです。

つまり、

ただの光景が、好い光景若しくは悪い光景に発展するわけです。

ただの音が、好い音若しくは悪い音に発展するわけです。

ただの匂いが、好い匂い若しくは悪い匂いに発展するわけです。

ただの味が、好い味若しくは悪い味に発展するわけです。

ただの触感が、好い触感若しくは悪い触感に発展するわけです。

まさに、

連想が開始されるわけです。

そして、

好い光景若しくは悪い光景の判断は、過去の記憶という物差しによって計られる。

好い音若しくは悪い音の判断は、過去の記憶という物差しによって計られる。

好い匂い若しくは悪い匂いの判断は、過去の記憶という物差しによって計られる。

好い味若しくは悪い味の判断は、過去の記憶という物差しによって計られる。

好い触感若しくは悪い触感の判断は、過去の記憶という物差しによって計られる。

従って、

『今、ここ』を構える一点集中の機会を逃さないためには、

五感が感知する外的要因、つまり、ただの光景のままで「想い」を静止することです。

五感が感知する外的要因、つまり、ただの音のままで「想い」を静止することです。

五感が感知する外的要因、つまり、ただの匂いのままで「想い」を静止することです。

五感が感知する外的要因、つまり、ただの味のままで「想い」を静止することです。

五感が感知する外的要因、つまり、ただの触感のままで「想い」を静止することです。

 

57.固定観念という壁

尿治療というのが、昔から劇的効果を発揮すると言われています。

つまり、

自分の排尿水を飲むことで、不治の病を治す効果があるわけです。

ところが、

これがなかなか抵抗があってできない。

ところが、

犬は、自分の排泄物を平気で食べます。

人間と犬で、一体どうしてこんなに違いがあるのでしょうか?

まさに、

犬、つまり、宇宙(自然社会=地球)の世界で生きている動物たちは、自分の排泄物をただの物質としか捉えていないわけです。

つまり、

彼らにとって、自分の排泄物は、

ただの光景であり、

ただの音であり、

ただの匂いであり、

ただ味であり、

ただの触感であるだけです。

そして、

この後からの連想が起こらないわけです。

つまり、

ただの光景が、好い光景若しくは悪い光景に発展しないわけです。

ただの音が、好い音若しくは悪い音に発展しないわけです。

ただの匂いが、好い匂い若しくは悪い匂いに発展しないわけです。

ただの味が、好い味若しくは悪い味に発展しないわけです。

ただの触感が、好い触感若しくは悪い触感に発展しないわけです。

まさに、

連想が起こらないわけです。

ところが、

わたしたち人間は、

排泄物に対して、悪い固定観念を持っているから、自分の排泄物を食べたり、飲んだりすることに抵抗があるわけです。

まさに、

はじめの「想い」のままで静止しているのか?

はじめの「想い」を連想にまで発展させるか?

まさに、

ここが分岐点に他なりません。

 

58.折り返し点(特異点)

あなたが、

はじめの「想い」のままで静止していれば、

あなたは、

垂直世界の『今』事象にいるわけです。

あなたが、

はじめの「想い」を連想にまで発展させれば、

あなたは、

水平世界の現在事象にいるわけです。

まさに、

この分岐点が、

『今、ここ』を構える一点集中状態なのです。

そして、

呼吸でたとえれば、

吐く息と吸う息の折り返し点に他ならないわけです。

わたしたちは普段、息そのものを意識したことがありません。

ましてや、

吐く息と吸う息の折り返し点など意識しようがないわけです。

まさに、

吐く息と吸う息の折り返し点こそ、『今、ここ』を構える一点集中状態なのです。

そして、

円回帰運動でたとえれば、

超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死=いわゆる誕生

と、

超対性の死(極(pole)=2π(360度))=完全(完璧)な死=いわゆる死

の間の折り返し点こそ、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

に他ならないのです。

 

59.夢の中の眠り

円回帰運動でたとえれば、

超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死=いわゆる誕生

と、

超対性の死(極(pole)=2π(360度))=完全(完璧)な死=いわゆる死

の間の折り返し点こそ、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

に他ならない。

そこで、

拙著「超対性理論(Vol.(III)」第七十九章「夢の中の眠り」を引用します。

 

第七十九章 夢の中の眠り

我々人間は、産まれた直後の記憶が欠落している。

つまり、

超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死=いわゆる誕生

が欠落している証左である。

また、

我々人間は、死ぬ直前の記憶も欠落している。

つまり、

超対性の死(極(pole)=2π(360度))=完全(完璧)な死=いわゆる死も欠落している証左である。

その結果、

我々人間の一生は、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

→ 

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死

→ 

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

=いわゆる生

という振り子運動の一生になってしまったのである。

従って、

我々人間の一生を、

超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死

→ 

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

→ 

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死

→ 

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

→ 

超対性の死(極(pole)=2π(360度))=完全(完璧)な死

という円回帰運動の一生に戻さなければならない。

ではどうすれば、

振り子運動の一生を円回帰運動の一生に戻すことができるのか?

そこで、

振り子運動の一生では、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))が、夜眠りに就く瞬間(とき)であった。

一方、

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))が、朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)であった。

まさに、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

→ 

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死

→ 

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

=いわゆる生

という振り子運動の一生に他ならない所以である。

ところが、

円回帰運動の一生では、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))が、朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)になる。

一方、

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))が、夜眠りに就く瞬間(とき)になる。

まさに、

逆さま人生を順さま人生に変えることである。

従って、

超対性の死(極(pole)=π(180度))とは、朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)から、夜眠りに就く瞬間(とき)との合間にある、昼間起きているいわゆる現実の中にある。

まさに、

いわゆる現実こそ、超対性の死の一瞥に他ならない。

これが逆さまであったのである。

だから、

一瞥だったのである。

逆に言えば、

我々人間の人生は、眠りの中の夢の人生(夜間の人生)が主役で、夢の中の眠りの人生(昼間の人生)が脇役だったのである。

つまり、

夢の中の眠りとは、昼間の人生、つまり、いわゆる現実に他ならない。

 

60.一日の人生の折り返し点

吐く息と吸う息の折り返し点こそ、『今、ここ』を構える一点集中状態である。

そして、

円回帰運動でたとえれば、

超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死=いわゆる誕生

と、

超対性の死(極(pole)=2π(360度))=完全(完璧)な死=いわゆる死

の間の折り返し点、

つまり、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

こそ、『今、ここ』を構える一点集中状態である。

そこで、

円回帰運動の一生では、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))が、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)になる。

一方、

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))が、

夜眠りに就く瞬間(とき)になる。

そして、

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死が、

昼間起きている人生になる。

従って、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)こそ、

『今、ここ』を構える一点集中状態に他ならない。

まさに、

生きるための、

『今、ここ』を構える一点集中状態が、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)に他ならない。

一方、

夜眠りに就く瞬間(とき)こそ、

『今、ここ』を構える一点集中状態に他ならない。

まさに、

死ぬための、

『今、ここ』を構える一点集中状態が、

夜眠りに就く瞬間(とき)に他ならない。

 

61.生きる理解=死の理解の鍵

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)こそ、

『今、ここ』を構える一点集中状態に他ならない。

まさに、

生きるための、

『今、ここ』を構える一点集中状態が、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)に他ならない。

一方、

夜眠りに就く瞬間(とき)こそ、

『今、ここ』を構える一点集中状態に他ならない。

まさに、

死ぬための、

『今、ここ』を構える一点集中状態が、

夜眠りに就く瞬間(とき)に他ならない。

従って、

生きる人生は、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)から、如何に、『今、ここ』を構える一点集中状態を維持できるかにかかっている。

まさに、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)が、生きるためのはじめの「想い」に他ならない。

一方、

死ぬ人生は、

夜眠りに就く瞬間(とき)から、如何に、『今、ここ』を構える一点集中状態を維持できるかにかかっている。

まさに、

夜眠りに就く瞬間(とき)が、死ぬためのはじめの「想い」に他ならない。

この事実は、未だ知らない未知の死を理解する途轍もない真理である。

 

62.生きる鍵

生きる人生は、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)から、如何に、『今、ここ』を構える一点集中状態を維持できるかにかかっている。

まさに、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)が、生きるためのはじめの「想い」に他ならない。

一方、

死ぬ人生は、

夜眠りに就く瞬間(とき)から、如何に、『今、ここ』を構える一点集中状態を維持できるかにかかっている。

まさに、

夜眠りに就く瞬間(とき)が、死ぬためのはじめの「想い」に他ならない。

そして、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)、

から、

夜眠りに就く瞬間(とき)、

の間にあるのが、

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死、

つまり、

昼間起きている人生になる。

まさに、

『今、ここ』を構える一点集中状態を維持することが、

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死状態である、昼間起きている人生の中にある。

 

63.死ぬ鍵

死ぬ人生は、

夜眠りに就く瞬間(とき)から、如何に、『今、ここ』を構える一点集中状態を維持できるかにかかっている。

まさに、

夜眠りに就く瞬間(とき)が、死ぬためのはじめの「想い」に他ならない。

つまり、

夜眠りに就く瞬間(とき)までは、憶えているが、以後は一切憶えていません。

まさに、

一切憶えていないことこそが、死ぬためのはじめの「想い」に他ならない。

では、

一切憶えていないこととは、一体どういうことなのでしょうか?

まさに、

憶えているとは、過去のことを憶えていることに他なりません。

従って、

一切憶えていないということは、夜眠りに就く瞬間(とき)までのことを憶えていないことに他なりません。

つまり、

過去の痕跡を辿ることができなくなることに他なりません。

つまり、

死ぬとは、過去の痕跡を辿ることができなくなることに他なりません。

ところが、

わたしたち生きている人間は、

その後、眠りの中の夢を経由して、目を覚まします。

そして、

眠りの中の夢から、目を覚ました瞬間(とき)、

つまり、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)、

は過去の痕跡を辿ることができるようになっているのです。

言い換えれば、

夢を憶えているわけです。

そして、

生き返るわけです。

従って、

過去の痕跡を辿ることができることこそ、生き返る証明であるわけです。

逆に言えば、

過去の痕跡を辿ることができなくなることこそ、死ぬ証明になるわけです。

 

64.死ぬ証明

過去の痕跡を辿ることができることこそ、生き返る証明である。

逆に言えば、

過去の痕跡を辿ることができなくなることこそ、死ぬ証明になる。

そこで、

ギリシャの哲学者ソクラテスの逸話を紹介します。

 

ソクラテスが毒を飲まされる死刑を宣告された。

彼が毒をあおる直前に、弟子たちが彼に質問した。

「師匠はこれから死ななければならないのに、どうしてそんなに平然としておられるのですか?死が怖くないのですか?」

ソクラテスは答えた。

「死とはどんなものかわからないのに、どうして怖がることができようか!」

「知らないものを、どうして怖がることができるのか!」

このソクラテスの回答を理解できた弟子たちはいなかったそうです。

そこで、

死んだらどうなるのか?

その可能性は二つしかない。

ひとつめは、

完全な死であれば、死んだ者の痕跡は一切残らない。

そうしますと、

死んだら何処に行くかと思い悩む必要など一切ありません。

つまり、

死んだらすべては終わるからです。

ふたつめは、

肉体は死んでも、魂は永遠であるという輪廻転生説です。

そうしますと、

永遠に死なないのですから、

死んだら何処に行くかと思い悩む必要など一切ありません。

従って、

生きている者にとって、

死んだらどうなるかなどと考えること自体がナンセンスなのです。

まさに、

死ぬこととは、過去の痕跡を辿ることができなくなることに他ならないからです。

 

65.一日 = 一生の一瞥

過去の痕跡を辿ることができることこそ、生き返る(復活の)証明である。

まさに、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)が生き返る(復活の)瞬間の一瞥である。

逆に言えば、

過去の痕跡を辿ることができなくなることこそ、死ぬ証明になる。

まさに、

夜眠りに就く瞬間(とき)が死ぬ瞬間の一瞥である。

つまり、

有限の世界の中にある境界線(特異点)こそが、

はじめ(始点)とおわり(終点)に他ならない。

言い換えれば、

円回帰運動の中の始点と終点に他ならない。

そして、

円回帰運動の円周の中にある折り返し点、

つまり、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))が、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)になる。

一方、

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))が、

夜眠りに就く瞬間(とき)になる。

そして、

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死が、

昼間起きている人生になる。

 

66.輪廻転生説 V.S. 記憶喪失症

記憶喪失症という病気があります。

つまり、

過去の痕跡を辿ることができなくなってしまったのが、記憶喪失症に他なりません。

従って、

記憶喪失症の人間は、死んだ状態に他ならないのです。

ところが、

肉体は生きています。

そして、

新しい人生を歩んでいて、新しい人生における過去は憶えています。

まさに、

生まれ返ったわけです。

この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?

そこで、

輪廻転生説を思い出してください。

輪廻転生説とは、

肉体は消滅しても、魂は永遠であるという考え方です。

言い換えれば、

肉体は消滅しても、記憶は永遠であるという考え方です。

そうしますと、

記憶喪失症の現象とまるで正反対の現象が輪廻転生説に他ならないことが証明されます。

そこで、

輪廻転生説を目の当たりにした人はいるでしょうか?

一方、

記憶喪失症を目の当たりにした人はいるでしょうか?

答えは明白です。

それでも、

わたしたち人間は、輪廻転生説を信じるのでしょうか?

 

67.背中合わせの生と死

過去の痕跡を辿ることができることこそ、生き返る(復活の)証明である。

まさに、

朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)が生き返る(復活の)瞬間の一瞥である。

逆に言えば、

過去の痕跡を辿ることができなくなることこそ、死ぬ証明になる。

まさに、

夜眠りに就く瞬間(とき)が死ぬ瞬間の一瞥である。

従って、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

→ 

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死

→ 

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

が一日=一生の一瞥における生の位相(Phase)である。

そして、

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

→ 

超対性の死(極(pole)=2π(360度))=完全(完璧)な死

超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死

→ 

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

が一日=一生の一瞥における死の位相(Phase)である。

つまり、

わたしたち人間は、

一日=一生の一瞥において、

生の位相(Phase)と死の位相(Phase)を繰り返しているのです。

まさに、

生と死は背中合わせなのです。

 

68.忘れ去られた死の人生(位相)

わたしたち人間は、

一日=一生の一瞥において、

生の位相(Phase)と死の位相(Phase)を繰り返しているのです。

まさに、

生と死は背中合わせなのです。

ところが、

わたしたち人間は、

円回帰運動の一日=一生の一瞥を送らず、

振り子運動の一日=一生の一瞥を送っています。

つまり、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

=夜眠りに就く瞬間(とき

→ 

超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死

→ 

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

=)朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)

という一日=一生の一瞥になっている。

つまり、

昼間起きている人生、

つまり、

生の位相(Phase)しかないのである。

そして、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

=夜眠りに就く瞬間(とき)

→ 

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死

→ 

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

=朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)

つまり、

夜間眠っている人生が一日=一生の一瞥における死の位相(Phase)であることを自覚していないのです。

まさに、

生が好くて、死が悪いとする好いとこ取りの相対一元論で生きているのです。

 

69.好いとこ取りの相対一元論の発生原因

わたしたち人間は、

生が好くて、死が悪いとする好いとこ取りの相対一元論で生きている。

その理由は、

生と死が背中合わせになっていることを自覚していないからです。

言い換えれば,

一日=一生の一瞥の人生は、

円回帰運動であるのに、

振り子運動と錯覚しているからです。

つまり、

超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死

→ 

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

=朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)

→ 

超対性の死(極(pole)=π(180度))=不完全(不完璧)な死

→ 

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

=夜眠りに就く瞬間(とき

→ 

超対性の死(極(pole)=2π(360度))=完全(完璧)な死

という一日=一生の一瞥の人生なのに、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

=夜眠りに就く瞬間(とき

→ 

超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死

→ 

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

=朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)

という一日=一生の一瞥と勘違いしているからです。

まさに、

生が好くて、死が悪いとする好いとこ取りの相対一元論は、この勘違いから起っているのです。

 

69.好いとこ取りの相対一元論の正体

わたしたち人間は、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

=夜眠りに就く瞬間(とき

→ 

超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死

→ 

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

=朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)

という振り子運動を一日=一生の一瞥と勘違いして生きています。

つまり、

昼間起きている人生だけしか生きていません。

更にひどいことには、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

=夜眠りに就く瞬間(とき

→ 

超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死

→ 

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

=朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)

を昼間起きている人生、

つまり、

生の位相(Phase)と勘違いしているのです。

なぜならば、

円回帰運動の一日=一生の一瞥では、

絶対性の死(可除特異点(removable singularity)=π/2(90度))

=朝眠りの中の夢から覚めた瞬間(とき)

→ 

超対性の死(極(pole)=0π(0度))=完全(完璧)な死

→ 

相対性の死(真性特異点(essential singularity)=3π/2(270度))

=夜眠りに就く瞬間(とき)

は夜間眠っている人生、

つまり、

死の位相(Phase)なのです。

まさに、

わたしたち人間は、

逆さまの人生を送っているのです。

従って、

生と死が背中合わせであることも理解していない。

その上に、

生の位相(Phase)と死の位相(Phase)を逆さまに捉えている。

この二重の勘違いこそ、

生が好くて、死が悪いと捉える、好いとこ取りの相対一元論に他ならないのです。

 

70.誕生・生・死は地球の相転移現象

わたしたち人間は、

生と死が背中合わせであることも理解していない。

その上に、

生の位相(Phase)と死の位相(Phase)を逆さまに捉えている。

この二重の勘違いこそ、

生が好くて、死が悪いと捉える、好いとこ取りの相対一元論に他ならない。

では、

生と死が背中合わせであるとは一体どういうことなのでしょうか?

そこで、

生と死が背中合わせであることは、

生と死それぞれが相転移現象の一位相(Phase)に過ぎないことを示唆しているのです。

平たく言えば、

誕生とは、

地球全体感から個人部分観に相転移することであり、

死とは、

個人部分観から地球全体感に相転移することであり、

人間といえども地球そのものであることには変わりありません。

たとえば、

H₂Oという分子化合物が、

0度以下なら氷となり、

0度から100度までは水となり、

100度以上になると水蒸気になることを、相転移現象と言います。

従って、

わたしたち人間も、

地球の大地から人間として誕生するのも、地球上で生きるのも、そして、死ぬことによって地球の大地に戻ることも、H₂Oという分子化合物が氷から水になり、水から水蒸気になるのと同じ相転移現象に他ならないのです。

従って、

わたしたち人間の、

生が好くて、死が悪いとする好いとこ取りの相対一元論は、

自分は地球とは違う一個人だと勘違いしていることに他なりません。

 

71.知らないことに怯える人間

わたしたち人間は、

過ぎ去った過去の出来事を知っています。

そして、

知っている過去の出来事については、

出来事の内容も知っています。

つまり、

出来事を知るとは、

出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知っているということに他ならないのです。

まさに、

過去とは記憶に他ならない所以です。

一方、

わたしたち人間だけが、

未だ来ぬ未来の最後の出来事である死を知っています。

ところが、

知っている最後の未来の出来事については、

出来事の内容は知らないのです。

つまり、

出来事の内容を知らないとは、

出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知らないということに他ならないのです。

まさに、

わたしたち人間は、

未だ来ぬ未来の最後の出来事である死の存在は知っているのですが、その内容までは知らないのです。

この事実を一体どう受けとめたらいいのでしょうか?

まさに、

わたしたち人間は、

実のところは、死について何も知らないのです。

言い換えれば、

中途半端な知り方をしているだけなのです。

更に言い換えれば、

不完全な知性による知り方をしているだけなのです。

まさに、

生と死が背中合わせ(表裏一体)であることの証左に他なりません。

だから、

死は突然襲ってくるのです。

だから、

死を怖れているのです。

つまり、

わたしたち人間が死を怖れているのは、

死の内容(What?Where?Why?When?How?)に怖れているのではなく、

死が突然襲ってくることに怖れているのです。

まさに、

わたしたち人間は、

知らないことに怯えているのです。

ソクラテスはそこを指摘していたのです。

 

72.二元論の世界を理解する鍵

わたしたち人間が死を怖れているのは、

死の内容(What?How?Where?Why?When?)に怖れているのではなく、

死が突然襲ってくることに怖れている。

まさに、

わたしたち人間は、

知らないことに怯えている。

まさに、

わたしたち人間は、

実在ではなく、その陰に怯えているのである。

なぜならば、

生と死は背中合わせだからである。

つまり、

生は過去の出来事だから、

出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知っている。

死は未来の出来事だから、

出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知らない。

そんな生と死が背中合わせである。

この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?

まさに、

生死二元の表面(生)と裏面(死)の特性を示唆しているのです。

つまり、

表面(生)=過去はすべてを明らかにしている。

裏面(死)=未来はすべてを明らかにしていない。

二元論の世界を理解する鍵がここにあるのです。

 

73.生・死二元要因の正体

生と死は背中合わせである。

言い換えれば、

生と死は表裏一体の一枚のコインに他ならない。

つまり、

生と死は二元論世界を構成する二元要因に他ならない。

従って、

生が表面なら、死は裏面である。

では、

「生」とは何か?

たとえば、

あなたにとっての「生」とは何でしょうか?

この世に誕生してから現在まで生きてきたことが、あなたにとっての「生」に他なりません。

逆に言えば、

あなたの現在から先の「生」は保証されていません。

明日死ぬかも知れない、70年後に死ぬかも知れない。

従って、

あなたにとっての「生」とは、

過去の出来事に他なりません。

つまり、

「生」は過去の出来事だから、

出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知っている。

一方、

「死」は未来の出来事だから、

出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知らない。

そんな「生」と「死」が背中合わせである。

そんな「生」と「死」が表裏一体の一枚のコインである。

そんな「生」と「死」が二元論世界の二元要因を構成している。

この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?

そこで、

二元論の本質を思い出してください。

二元論の世界を構成する二元要因は、

実在するものと、その不在概念で構成されている。

たとえば、

健康・病気二元論の世界を構成する二元要因の「健康」と「病気」では、

「病気」が実在するもので、「健康」は実在する「病気」の不在概念に過ぎません。

幸福・不幸二元論の世界を構成する二元要因の「幸福」と「不幸」では、

「不幸」が実在するもので、「幸福」は実在する「不幸」の不在概念に過ぎません。

従って、

生・死二元論の世界を構成する二元要因の「生」と「死」では、

「死」が実在するもので、「生」は実在する「死」の不在概念に過ぎません。

そうしますと、

未来の出来事であり、出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知らない「死」が実在するもので、過去の出来事であり、出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知っている「生」は実在する「死」の不在概念に過ぎないということになります。

まさに、

第三十六章【最後の素数=最後の未来=死】で述べた通り、

「最後のない未来」の世界では、

途中の未来は予想可能である。

なぜならば、

予想可能な自然数はnで無限に表現できるからだ。

つまり、

最後のない無限の数である。

一方、

「最後のある未来」の世界では、

途中の未来は予想不可能である。

予想不可能な素数はnで表現できない。

つまり、

最後のある有限の数である。

言い換えれば、

「死のない」世界では、

途中の未来は予想可能である。

なぜならば、

予想可能な自然数はnで無限に表現できるからだ。

つまり、

死のない無限の世界である。

一方、

「死のある」世界では、

途中の未来は予想不可能である。

予想不可能な素数はnで表現できないからだ。

つまり、

死のある有限の世界である。

まさに、

わたしたち人間が、

最後の未来である死を知ったのに、

途中の未来を知ることができない所以は、

最後のある有限の素数の世界(宇宙)に実在しているからだ。

まさに、

「死のない」世界こそ「生」の世界に他ならない証左です。

まさに、

生・死二元論の世界を構成する二元要因の「生」と「死」では、

「死」が実在するもので、「生」は実在する「死」の不在概念に過ぎない証左です。

 

74.実在宇宙 & 映像宇宙

未来の出来事であり、出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知らない「死」が実在するもので、過去の出来事であり、出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知っている「生」は実在する「死」の不在概念に過ぎない。

この事実は一体何を意味しているのでしょうか?

まさに、

素数の世界が実在するもので、自然数の世界は実在する素数の世界の不在概念に過ぎないのです。

言い換えれば、

素数の世界が実在するもので、自然数の世界は映像に過ぎないのです。

まさに、

わたしたち人間が観測している宇宙は映像に過ぎないのです。

一方、

実在している宇宙は、『今、ここ』の宇宙であって、一切、観測できない宇宙なのです。

言い換えれば、

わたしたち人間が観測している宇宙は、“運動の光と音と匂いと味と触覚の宇宙”なのです。

一方、

実在している宇宙は、『今、ここ』だけにある“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の宇宙”なのです。

従って、

自然数を基にしている既存の数学・物理学で推論する科学は、所詮、自然数の世界、つまり、“運動の光と音と匂いと味と触覚の宇宙”しか表現できないのであって、実在している『今、ここ』だけにある“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の宇宙”は、素数の世界でしか表現できません。

ところが、

素数の世界を式で表現することは未だ実現できていません。

つまり、

従来の物理学・天文学で表現している世界は、しょせん、実在しない、過去の映像世界に過ぎないのです。

 

75.観測できない宇宙 & 観測できる宇宙

表面(生)=過去はすべてを明らかにしている。

裏面(死)=未来はすべてを明らかにしていない。

言い換えれば、

過去の出来事であり、

出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知っている「生」が、

生死二元の表面である。

そして、

未来の出来事であり、

出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知らない「死」が、

生死二元の裏面である。

つまり、

未来の出来事であり、出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知らない「死」が実在するもので、過去の出来事であり、出来事の内容(What?Where?Why?When?How?)を知っている「生」は実在する「死」の不在概念に過ぎない。

この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?

二元論の世界を理解する鍵がここにある。

つまり、

二元要因の表面と裏面の特性を示唆しているのです。

まさに、

裏の世界が実在で、表の世界は映像に過ぎないのです。

言い換えれば、

観えない(観測できない)世界が実在で、観える(観測できる)世界は映像に過ぎないのです。

厳密に言えば、

裏の世界が実在で、表の世界は裏の世界の不在概念に過ぎないのです。

言い換えれば、

観えない(観測できない)宇宙が実在で、観える(観測できる)宇宙は観えない(観測できない)宇宙の不在概念に過ぎないのです。

 

76.実在宇宙と映像宇宙の乖離

観えない(観測できない)宇宙が実在で、観える(観測できる)宇宙は観えない(観測できない)宇宙の不在概念に過ぎない。

物理学者、天文学者たちは、

自分たちが構築できた理論を実証するために、観測をします。

そして、

観測できた事象を事実として受け入れ、自分たちが構築できた理論が正しく実証できたと信じています。

ところが、

彼らの理論構築は、自然数を基本にした数学に基づいています。

つまり、

数学とは自然数を基本に構築されています。

なぜならば、

自然数は理論的に表現できるからです。

つまり、

自然数(n)の次の自然数は(n+1)と表現できるからです。

逆に言えば、

彼らの理論構築は、素数を基本にしていません。

言い換えれば、

素数を基本にした数学は未だに構築されていないのです。

なぜならば、

素数を理論的に表現する方法が未だ発見されていないからです。

つまり、

素数(n)の次の素数は(n)で表現できないのです。

一方、

自然数は、素数に合成数(人工数)を加えて、(n)の次の自然数は(n+1)と表現できる。

ところが、

自然数(合成数=人工数)は、人間社会だけに通用する数であって、宇宙全体に通用するものではありません。

従って、

自然数を基本にして構築された理論は、宇宙には完璧に通用するものではないのです。

言い換えれば、

物理学者、天文学者たちの構築した理論というものは、割り切り理論に過ぎないのです。

更に言い換えれば、

物理学者、天文学者たちの構築した理論というものは、近似値理論に過ぎないのです。

従って、

例外ケースが必ずあるわけです。

では、

例外ケースとは一体どんなものなのでしょうか?

まさに、

実在する観えない(観測できない)宇宙と、不在概念に過ぎない観える(観測できる)宇宙の乖離に他なりません。

平たく言えば、

実在する観えない(観測できない)宇宙と、不在概念に過ぎない観える(観測できる)宇宙の時差の間に生じる事象に他なりません。

 

77.乖離 =『今、ここ』

観えない(観測できない)宇宙が実在で、観える(観測できる)宇宙は観えない(観測できない)宇宙の不在概念に過ぎない。

そして、

実在する観えない(観測できない)宇宙と、不在概念に過ぎない観える(観測できる)宇宙の間には、例外ケースという乖離がある。

平たく言えば、

実在する観えない(観測できない)宇宙と、不在概念に過ぎない観える(観測できる)宇宙の間には、『今』と現在の間に生じる乖離がある。

そこで、

現在と過去若しくは未来の間には時差があります。

ところが、

『今』と現在の間に生じる乖離は時差ではありません。

では、

『今』と現在の間に生じる乖離とは一体何でしょうか?

そこで、

『今』は垂直世界の原点です。

そして、

『ここ(空間)』の高さが垂直軸の目盛りです。

一方、

現在は水平世界の原点です。

そして、

『時(刻)』の遠さが水平軸の目盛りです。

まさに、

垂直世界では、

『時(刻)』が止まっていて、空間が動いている。

水平世界では、

『時(刻)』が動いていて、空間が止まっている。

まさに、

空間が3次元で、時間が4次元とする「時空の世界」とは、水平世界の話である。

一方、

垂直世界では、

時間よりも空間の方が高次元なのです。

まさに、

『今、ここ』とは、

時間よりも空間の方が高次元の世界であり、

実在する観えない(観測できない)宇宙と、不在概念に過ぎない観える(観測できる)宇宙の間には、『今』と現在の間に生じる乖離に他なりません。

 

78.『今』 & 『ここ』

『今、ここ』とは、

時間よりも空間の方が高次元の世界であり、

実在する観えない(観測できない)宇宙と、不在概念に過ぎない観える(観測できる)宇宙の間には、『今』と現在の間に生じる乖離に他ならない。

『今』は垂直世界の原点です。

そして、

『ここ(空間)』の高さが垂直軸の目盛りです。

そこで、

垂直世界では、

『時(刻)』が止まっていて、空間が動いている。

言い換えれば、

『今、ここ』では、

『今』が止まっていて、『ここ』が動いている。

そこで、

垂直世界では、

時間よりも空間の方が高次元なのです。

言い換えれば、

『今、ここ』では、

『今』よりも『ここ』の方が高次元なのです。

 

79.静止する時間

垂直世界では、

時間よりも空間の方が高次元である。

言い換えれば、

『今、ここ』では、

『今』よりも『ここ』の方が高次元である。

この事実は一体何を意味しているでしょうか?

そこで、

水平世界では、

『時(刻)』が動いていて、空間が止まっている。

まさに、

空間が3次元で、時間が4次元とする「時空の世界」とは、水平世界の話である、と前述したことを思い出してください。

言い換えれば、

空間が3次元で、時間が4次元とする「時空の世界」では、『時(刻)』が動いていて、空間が止まっている。

つまり、

高次元が動いていて、低次元が止まっているのです。

従って、

垂直世界では、

時間よりも空間の方が高次元である。

言い換えれば、

『今、ここ』では、

『今』よりも『ここ』の方が高次元である。

従って、

『今』が止まっていて、『ここ』が動いているのです。

まさに、

『今、ここ』では、

『今』が止まっていて、『ここ』が動いている所以です。

 

80.自分ひとりだけの実在世界

水平世界では、

空間よりも時間の方が高次元である。

つまり、

時間が動いていて、空間が止まっているわけです。

一方、

垂直世界では、

時間よりも空間の方が高次元である。

つまり、

空間が動いていて、時間が止まっているわけです。

たとえば、

時速1666キロ(自転速度)で走っている地球号という汽車に乗っている自分が、窓の外の景色(天空)にいる他人を見ていると、窓の外の景色(天空)にいる他人が時速1666キロで動いているように見え、自分が止まっているように見えます。

ところが、

時速1666キロ(自転速度)で走っている地球号という汽車こそ、『今』という垂直軸(垂直世界)に他ならないのです。

そして、

時速1666キロで動いているように見える窓の外の景色(天空)こそ、過去・現在・未来という水平軸に他ならないのです。

従って、

自分は常に垂直世界にいるわけです。

一方、

外の景色(天空)にいる他人は常に水平世界にいるわけです。

そして、

自分は常に見えません。

他人は常に見えます。

まさに、

見えない(観測できない)自分は常に垂直世界にいるわけです。

一方、

見える(観測できる)他人は常に水平世界にいるわけです。

まさに、

自分ひとりだけの実在世界しかない証左です。

逆に言えば、

自分以外の世界はすべて映像である証左です。

 

81.光は暗闇の不在概念が真理

見えない(観測できない)自分は常に垂直世界にいる。

まさに、

実在世界は、

見えない(観測できない)垂直世界に他なりません。

つまり、

実在世界は、

“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の世界”に他なりません。

従って、

実在宇宙は、

“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の宇宙”に他なりません。

一方、

見える(観測できる)他人は常に水平世界にいる。

まさに、

映像世界は、

見える(観測できる)水平世界に他なりません。

つまり、

映像世界は、

“運動の光と音と臭と味と触覚の世界”に他なりません。

従って、

映像宇宙は、

“運動の光と音と臭と味と触覚の宇宙”に他なりません。

そうしますと、

わたしたち人間が、

そして、

科学者たちが、

実在する宇宙と信じて止まない、見える(観測できる)“運動の光と音と臭と味と触覚の宇宙”とは、映像宇宙に過ぎないのです。

そして、

わたしたち人間が、

そして、

科学者たちが、

見えない(観測できない)ゆえ、実在しないと信じて止まない、“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の宇宙”こそ、実在宇宙に他ならないのです。

 

82.はじめに暗闇ありき = 宇宙の話

実在する宇宙と信じて止まない、見える(観測できる)“運動の光と音と臭と味と触覚の宇宙”とは、映像宇宙に過ぎない。

そして、

見えない(観測できない)ゆえ、実在しないと信じて止まない、“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の宇宙”こそ、実在宇宙に他ならない。

従って、

はじめに静止があって、

運動とは静止していない状態を言うのです。

つまり、

静止なくして、運動はありえないのです。

そして、

はじめに暗闇があって、

光とは暗闇のない状態を言うのです。

つまり、

暗闇なくして、光はありえないのです。

そして、

はじめに沈黙があって、

音とは沈黙のない状態を言うのです。

つまり、

沈黙なくして、音はありえないのです。

そして、

はじめに無臭があって、

臭とは無臭のない状態を言うのです。

つまり、

無臭なくして、臭はありえないのです。

そして、

はじめに無味があって、

味とは無味のない状態を言うのです。

つまり、

無味なくして、味はありえないのです。

そして、

はじめに無触覚があって、

触覚とは無触覚のない状態を言うのです。

つまり、

無触覚なくして、触覚はありえないのです。

この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?

まさに、

わたしたち人間が逆さまに生きていることを示唆しているのです。

 

83.はじめにことばありき = 人間社会の話

キリスト教のバイブルである新約聖書の件に、

“はじめにことばありき”と書かれています。

これは一体どういう意味でしょうか?

まさに、

“はじめに光ありき”と云っているわけです。

光一元論が、あらゆる宗教の原点にあります。

日本神道の天照大神信仰も、光(太陽)信仰に他なりません。

世界最古の宗教と言われているゾロアスター教も拝火教と言われるように、光(火)信仰です。

一方、

原始ユダヤ教の一つであるエッセネ派(エッセネスクール)だけが、暗闇信仰です。

つまり、

“はじめに暗闇ありき”であったわけです。

そして、

イエス・キリストもエッセネ派(エッセネスクール)で学んでいたのです。

イエス・キリストが十字架に架けられたのは、当時の常識を悉く覆すような発言を繰り返していたからです。

では、

当時の常識とは一体何だったのでしょうか?

一方、

イエス・キリストが繰り返した常識外れの発言とは一体何だったのでしょうか?

まさに、

イエス・キリストは、“はじめに暗闇ありき”と言ったからです。

つまり、

“はじめに暗闇ありき”は当時の常識と正反対であったわけです。

では、

当時の常識とは何だったのでしょうか?

まさに、

“はじめに光ありき”であったわけです。

言い換えれば、

“はじめにことばありき”であったわけです。

ところが、

前章で述べた通り、

はじめに暗闇があって、

光とは暗闇のない状態を言うのです。

まさに、

わたしたち人間社会が逆さま社会である証左に他なりません。

 

84.暗闇の実在性

わたしたち人間は、

光が実在で、暗闇は光の不在概念に過ぎないと信じてきました。

まさに、

あらゆる宗教が主張する光一元の世界観に他なりません。

だから、

幸福(光)が実在で、不幸(暗闇)は幸福(光)の不在概念に過ぎないと信じ、幸福を追求し、不幸を避け続けてきたのです。

では、

幸福とは一体どんな代物なのでしょうか?

一方、

不幸とは一体どんな代物なのでしょうか?

そこで、

拙著「不幸のすすめ』第七章【「不幸のすすめ」の根拠】を引用しましょう。

 

第七章 「不幸のすすめ」の根拠

「健康論」という本は古今東西無数にありますが、

「病気論」という本は多分ないでしょう。

これはまったく矛盾しています。

なぜならば、

病気が主体であり、

健康は客体であるからです。

つまり、

病気でない状態を健康と思っているからです。

そして、

「金持論」という本は古今東西無数にありますが、

「貧乏論」という本は多分ないでしょう。

これもまったく矛盾しています。

なぜならば、

貧乏が主体であり、

金持ちは客体であるからです。

つまり、

貧乏でない状態を金持ちだと思っているからです。

まさに、

今までの価値観がどんでん返しする根拠がここにあります。

従って、

幸福でない状態が不幸であるという考え方から、

不幸でない状態が幸福であるという考え方に、まもなく、なるでしょう。

一方、

「幸福論」という本は古今東西無数にありますが、

「不幸論」という本は多分ないでしょう。

まさに、

幸福が主体であり、

不幸が客体である所以です。

つまり、

幸福でない状態を不幸と思っているからです。

従って、

今までの価値観がどんでん返しになったら、

「病気論」

「貧乏論」

「不幸論」

が論じられなければならないのは当然です。

まさに、

「病気のすすめ」

「貧乏のすすめ」

「不幸のすすめ」

を論じている所以です。

 

そうしますと、

これからのわたしたち人間は、

不幸(暗闇)が実在で、幸福(光)は不幸(暗闇)の不在概念に過ぎないという考え方にならなければなりません。

まさに、

暗闇が実在で、光は暗闇の不在概念に過ぎないのです。

 

85.光の欺瞞性

これからのわたしたち人間は、

暗闇が実在で、光は暗闇の不在概念に過ぎないという考え方にならなければならない。

ところが、

現代科学は、光の絶対性を支持しています。

つまり、

光よりも速いものはないという考え方を基本にしています。

ただし、

光の速度は有限である。

つまり、

光の速度(C)=秒速300,000キロメートル

従って、

光の絶対性は無条件ではなく、条件つきであるわけです。

なぜならば、

無条件の絶対性ならば、光の速度は無限大(∞)であるはずです。

そうしますと、

宇宙の全存在は、秒速300,000キロメートルまでの宇宙に限定されるわけで、秒速300,000キロメートル以上の宇宙は存在しないということになります。

まさに、

わたしたちの宇宙は、条件つきの宇宙であるわけです。

しかも、

秒速300,000キロメートルという境界線がある。

しかも、

秒速300,000キロメートルが光の速度であることは、観測によって証明されている。

この話は一体何を示唆しているのでしょうか?

まさに、

暗闇が実在で、光は暗闇の不在概念に過ぎないことを示唆しているのではないでしょうか?

まさに、

条件つき絶対性こそ、光の欺瞞性に他ならないのです。

 

86.二律背反 & 補完

秒速300,000キロメートルが光の速度であることは、観測によって証明されている。

つまり、

デンマークの天文学者レーメルが1676年に、木星の月を観測している中で、光の速度が有限であることのみならず、その速度が秒速14万マイル(現在では秒速18万6000マイル=秒速300,000キロメートル)であることを割り出したわけです。

つまり、

光の速度は有限速度であることは間違いない。

一方、

光の速度を超えるものは一切ない。

つまり、

光速度が最大である。

つまり、

マイケルソン・モーリーの実験で1887年に証明されている。

従って、

この二つの実験によって、

わたしたちの宇宙は、絶対静止の宇宙ではなく、相対運動の宇宙であることが証明されたわけです。

ここまでは間違いはないでしょう。

言い換えれば、

ここまでは、科学は間違っていないでしょう。

言い換えれば、

ここまでが、科学の領分だったわけです。

ところが、

ここからは、哲学の領分になることを、科学者は理解できていないのです。

なぜならば、

相対性とは、

条件付きと同義語です。

逆に言えば、

絶対性とは、

無条件と同義語です。

そうしますと、

わたしたちの宇宙は、

条件付きの宇宙なのでしょうか?

若しくは、

無条件の宇宙なのでしょうか?

言い換えれば、

わたしたちの宇宙は、

自然数の宇宙なのでしょうか?

若しくは、

素数の宇宙なのでしょうか?

更に言い換えれば、

わたしたちの宇宙は、

人間が考え出した宇宙なのでしょうか?

若しくは、

人知を超えた者が考え出した宇宙なのでしょうか?

この問いに対する答えはありません。

つまり、

科学では答えは出せません。

言い換えれば、

哲学でしか答えは出せません。

なぜならば、

科学では、

質問があるから答えがあるのです。

平たく言えば、

科学では、

好きと嫌いは正反対(二律背反)関係と捉えているからです。

一方、

哲学では、

質問も答も一切ないからです。

平たく言えば、

哲学では、

好きと嫌いは同義語(補完)関係と捉えているからです。

 

87.自然数の宇宙 & 素数の宇宙

相対性とは、

条件付きと同義語である。

言い換えれば、

相対性とは、

有限と同義語である。

従って、

条件付き=有限である。

一方、

絶対性とは、

無条件と同義語である。

言い換えれば、

絶対性とは、

無限と同義語である。

従って、

無条件=無限である。

そうしますと、

光の速度を超えるものは一切ないなら、

光の速度が無限大でなければなりません。

そして、

わたしたちの宇宙は、

人間が考え出した宇宙に他なりません。

つまり、

わたしたちの宇宙は、

自然数の宇宙に他なりません。

一方、

光の速度が秒速300,000キロメートルなら、

光の速度より速いものがなければなりません。

そして、

わたしたちの宇宙は、

人知を超えた者が考え出した宇宙に他なりません。

つまり、

わたしたちの宇宙は、

素数の宇宙に他なりません。

 

88.有限の宇宙 & 無限の宇宙

光の速度を超えるものは一切ないなら、

光の速度が無限大でなければならない。

そして、

わたしたちの宇宙は、

人間が考え出した宇宙に他ならない。

つまり、

わたしたちの宇宙は、

自然数の宇宙に他ならない。

一方、

光の速度が秒速300,000キロメートルなら、

光の速度より速いものがなければならない。

そして、

わたしたちの宇宙は、

人知を超えた者が考え出した宇宙に他ならない。

つまり、

わたしたちの宇宙は、

素数の宇宙に他ならない。

結局の処、

最後のない世界では、

途中の未来は予測できる。

つまり、

わたしたちの宇宙が、

自然数の世界観です。

まさに、

無限にある数だから、

途中はすべて有限なのです。

一方、

最後のある世界では、

途中の未来は予測できない。

つまり、

わたしたちの宇宙が、

素数の世界感です。

まさに、

有限の数だから、

途中は無限なのです。

この事実が途轍もない真理です。

 

89.二つの宇宙

光の速度を超えるものは一切ないなら、

光の速度が無限大でなければならない。

そして、

わたしたちの宇宙は、

人間が考え出した宇宙に他ならない。

つまり、

わたしたちの宇宙は、

自然数の宇宙に他ならない。

結局の処、

「最後のない未来」の世界では、

途中の未来は予想可能である。

つまり、

わたしたちの宇宙が、

自然数の世界観です。

まさに、

無限にある数だから、

途中はすべて有限なのです。

従って、

わたしたちの宇宙は、

“運動の光と音と臭と味と触覚の宇宙”に他なりません。

言い換えれば、

わたしたちの宇宙は、

映像宇宙に他なりません。

一方、

光の速度が秒速300,000キロメートルなら、

光の速度より速いものがなければならない。

そして、

わたしたちの宇宙は、

人知を超えた者が考え出した宇宙に他ならない。

つまり、

わたしたちの宇宙は、

素数の宇宙に他ならない。

結局の処、

「最後のある未来」の世界では、

途中の未来は予想不可能である。

つまり、

わたしたちの宇宙が、

素数の世界感です。

まさに、

有限の数だから、

途中は無限なのです。

従って、

わたしたちの宇宙は、

“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の宇宙”に他なりません。

言い換えれば、

わたしたちの宇宙は、

実在宇宙に他なりません。

まさに、

わたしたち人間は、

実在の宇宙(在り方の宇宙)と映像の宇宙(考え方の宇宙)という二つの宇宙を生きています。

 

90.鏡の中の宇宙

光の速度を超えるものは一切ないなら、

光の速度が無限大でなければならない。

言い換えれば、

無限にある数だから、

途中はすべて有限なのです。

まさに、

人間が捏造した自然数の世界に他なりません。

まさに、

“運動の光と音と臭と味と触覚の宇宙”の

映像宇宙に他なりません。

一方、

光の速度が秒速300,000キロメートルなら、

光の速度より速いものがなければならない。

言い換えれば、

有限の数だから、

途中は無限なのです。

まさに、

人知を超えた者が創造した素数の世界に他なりません。

まさに、

“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の宇宙”の、

実在宇宙に他なりません。

そこで、

この二つの宇宙の関係について検証してみましょう。

“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の宇宙”

観えない宇宙

実在宇宙

有限の数(最後のある素数)だから、途中は無限の宇宙

一方、

“運動の光と音と臭と味と触覚の宇宙

観える宇宙

映像宇宙

無限にある数(無限にある自然数)だから、途中はすべて有限の宇宙

まさに、

鏡の前に立っている実在の自分(有限の数(最後のある素数)だから、途中は無限の宇宙)と、鏡の中に映っている映像の自分(無限の数(最後のない自然数)だから、途中は有限の宇宙)との関係に他なりません。

まさに、

素数の宇宙と自然数の宇宙との関係に他なりません。

 

91.実在と鏡の正体

鏡の前に立っている実在の自分(有限の数(最後のある素数)だから、途中は無限の宇宙)と、鏡の中に映っている映像の自分(無限の数(最後のない自然数)だから、途中は有限の宇宙)との関係に他ならない。

この事実は一体何を示唆しているのでしょうか?

つまり、

無限にある数(無限にある自然数)だから、

途中が有限の宇宙は観える宇宙なのです。

つまり、

観えるとは、

有限の途中の宇宙が観えているに過ぎないのです。

言い換えれば、

わたしたち人間が捏造した映像宇宙が観えているに過ぎないのです。

鍵は、

わたしたち人間が捏造した映像宇宙ということなのです。

平たく言えば、

わたしたち人間(科学者という映画製作者)が、在りもしない話を映画として製作して見ているのと同じことです。

一方、

有限の数(最後のある素数)だから、

途中が無限の宇宙は観えない宇宙なのです。

つまり、

観えないとは、

無限の途中の宇宙だから観えないわけです。

言い換えれば、

わたしたち人間(人知)を超えた実在宇宙だから観えないわけです。

鍵は、

わたしたち人間(人知)を超えた実在宇宙ということなのです。

平たく言えば、

わたしたち人間(人知)を超えているから、観えないのが実在宇宙なのです。

 

92.鏡の中の自分=自我意識(エゴ)

「人間原理」に基づく宇宙とは、

わたしたち人間(科学者という映画製作者)が、在りもしない話を映画として製作して見ている宇宙に他ならない。

つまり、

無限にある数(無限にある自然数)だから、

途中が有限の宇宙は観える宇宙なのです。

まさに、

観えるとは、

有限の途中の宇宙が見えているに過ぎないのです。

まさに、

観測できるとは、

有限の途中の宇宙が見えているに過ぎないのです。

そして、

映像宇宙とは、

有限の途中の宇宙が見えているに過ぎないのです。

まさに、

鏡の中に映っている自分は、

無限にある映像だから、

途中が有限の自分が見えるのです。

そして、

何処までの映像が見えるか(観測できるか)?の問題は、個人の主観に委ねられている。

何処までの素数がわかるか?の問題は、個人の主観に委ねられている。

つまり、

ひとり一人の人間(個人)の五感能力に委ねられているのです。

言い換えれば、

ひとり一人の人間(個人)の潜在能力の発揮度に委ねられているのです。

更に言い換えれば、

ひとり一人の人間(個人)の知性度に委ねられているのです。

更に言い換えれば、

ひとり一人の人間(個人)の記憶度に委ねられているのです。