政府は、2018年から人生100年時代構想として「人づくり革命」と「生産性革命」をとなえ、『働き方改革』等々あれやこれやと吠えまくっているが・・・
それも『革命』だのと、首相が名づけるとは、いったい何事だ!
2000年からWHO(世界保健機関)が「健康寿命(Healthy life expectancy)」という概念を提唱し、人間としてのQoL(Quality of Life:人生の質)の向上を訴えた。やっと厚労省も健康寿命を『健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間』と定義づけ、平均寿命と健康寿命の差をできるだけ小さくすることを目標に掲げて動き始めた。
日本人の平均寿命は女性86.83歳、男性80.50歳で世界トップクラスの長寿国ですが、これ自体は喜ばしいのですが、いくら長生きできているにしても、この間に『病気や不調と闘う介護期間が平均10数年間も続いたうえでの死』が日本の現実だ。
人間としてのQoL(Quality of Life:人生の質)の向上を訴えた言葉として、メメント・モリ(memento mori)が外国では使われていますが、これはラテン語で「自分の死を想え」「自分が(いつか)必ず死ぬことを忘れるな」といった意味で、元々は古代ローマとの戦いに勝利した将軍が「人は何時かは必ず死ぬ。その時を思い、生きている今を大いに楽しみなさい」という意味合いで使った言葉で、本来の意味では【今を楽しめ】というのが正しいようです。
もし急に「あなたの余命はあと半年です」と言われたとしたらどうするでしょう?
まだまだ続くと思っていた自分の人生が急に終わると告げられるわけです。
漠然とまだこれからも続くと思っていた自分の人生があと少しで終わることになったら。まだまだあると思っていた時間がもう無いと知ったら。一体何を思うでしょう?
これまでなんとなく描いていた人生計画や、いつか叶うと良いなと思っていた希望は全て崩れ、怒りや絶望感に襲われるかもしれません。
そしてきっと思うはずです。
「もっと自分の人生を生きればよかった。やりたいことをやれば良かった。もっと時間を大切にすればよかった。もっと家族や友人と一緒に過ごせばよかった」と・・・。
このように自分自身に「死」を突きつけて、そこから「どう生きるのか」を考えろというメッセージです。
「死」を身近に感じるからこそ「生」が輝くわけです。
死を身近に感じることもなく生きている私たちは、いつのまにか生きることに対しても鈍感になり、本当の意味で生きていないのかもしれません。
そんな私たちに強烈な喝を入れてくれるのが、この「メメント・モリ」という言葉です。
そこで、アップル創業者の故スティーブ・ジョブズが、2005年に米スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチは、癌を宣告され、死と向き合ったジョブズの経験に基づくメッセージが多くの人の感動を呼びました。そのスピーチの中でまさに「メメント・モリ」について語っているYouTubeを紹介します。
アップルのスティーブ・ジョブス 2011年 スタンフォード大学卒業式祝辞
日本語字幕版 YouTube(Naoki Hashimoto)YouTube動画全 14:33(死についての語りは8:50〜)
【死についての語り部分の要約】
私は17歳の時にこんな言葉に出会いました。
「毎日を人生最後の日だと思って生きよう。いつか本当にそうなる日が来る」
これは印象に残る言葉で、その日を境に33年間、私は毎朝、鏡に映る自分に問いかけるようにしているのです。「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか」と。
その答えが何日も「NO」のままなら、ちょっと生き方を見直せということです。
「自分はまもなく死ぬんだ」という認識が、重大な決断を下すときに一番役立つのです。なぜなら、周囲からの期待、プライド、失敗や恥をかくことへの恐怖など、これらはほとんどすべて、死の前では何の意味もなさなくなるからです。そこに残るのは、本当に必要なものだけです。
死を覚悟して生きていれば、「何かを失う」という心配をせずに済みます。我々はみんな最初から裸です。素直に自分の心に従えば良いのです。
1年前、私はガンと診断されました。
朝7時半の診断で、膵臓(すいぞう)に明白な腫瘍が見つかったのです。私は膵臓が何なのかさえ知りませんでした。医者からはほとんど治癒の見込みがないガンで、もっても半年だろうと告げられました。
そして、医者から「自宅に戻り身辺整理をするように」言われました。つまり、「死に備えろ」という意味です。これは子どもたちに今後10年かけて伝えようとしていたことを、たった数カ月で語らなければならないということです。家族が安心して暮らせるように、すべてのことをきちんと片付けなければならない。家族に「別れを告げなさい」と言われたのです。
一日中診断結果のことを考えました。そして、その日の午後にカメラを飲む検査を受けました。内視鏡が胃を通って腸に達し、膵臓に針を刺し、腫瘍細胞を採取しました。
鎮痛剤を飲んでいたので分からなかったのですが、妻の話によると細胞を顕微鏡で調べた医師たちが騒ぎ出したというのです。手術で治療可能なきわめてまれな膵臓がんだと分かったからでした。
私は手術を受け、おかげで今は元気です。
これが、人生で死にもっとも近づいたひとときでした。今後の何十年かはこうしたことが起こらないことを願っています。
このような経験をしたからこそ、死というものがただの概念だった頃より、確信をもって言えることがあります。
「誰も死にたくはない」ということです。天国に行きたいと思っている人間でさえ、死んでそこにたどり着きたいとは思わないでしょう。
しかし、死は我々全員の行き先です。死から逃れた人間は一人もいないし、今後もそうあるべきです。
死はたぶん、生命の最高の発明です。
死は古き者を消し去り、新しき者への道をつくる。ここでの「新しき者」は君たちのことです。しかしそう遠くないうちに君たちも「古き者」となり消えてゆきます。 深刻な話で申し訳ないですが「これが真実」です。
あなた方の時間は限られています。だから、本意でない人生を生きて時間を無駄にしないでください。ドグマにとらわれてはいけない。それは他人の考えに従って生きることと同じです。
他人の雑音で、あなた方の内なる声がかき消されないように。そして何より大事なのは、自分の心と直感に従う勇気を持つことです。
あなた方の心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはずです。
他のことは二の次で構わないのです。
スティーブ・ジョブスは1955年生まれで、スタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチが50歳の時、その6年後の56歳で亡くなっています。
人間として生きている本質について、スティーブ・ジョブスが語っている死の意味は、
「死は生命の最高の発明です。死は古き者を消し去り、新しき者への道をつくる。ここでの『新しき者』は君たちのことです。しかしそう遠くないうちに君たちも『古き者』となり消えてゆきます。 深刻な話で申し訳ないですが『これが真実です』と語りかけた死です。」
そこで、人間として生きている本質について、新田論が新しい視点から『宇宙のしくみのもとで生きている人間学」として語りかけています。
第35章 「再現ドラマの人生」の一部を記載
人間の寿命は今ではおよそ80年まで延びていますが、それは先進社会だけの話で、未開発地のアフリカでは、今でも平均寿命が30年にも満たない人間社会が現存しているのです。
まさに、
先進社会になればなるほど、寿命は延びているわけです。
逆に言えば、
後進社会になればなるほど、寿命は延びないわけです。
まさに、
一見道理に沿っている。
なぜなら、
先進社会は豊饒の世界だから長生きも可能だが、後進社会は極貧の世界だから長生きなど土台無理なのでしょう。
ところが、
先進社会で生きようが、後進社会で生きようが、人間である限り、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送らなければなりません。
まさに、
逆道理に沿っている証明に他なりません。
なぜなら、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生が避けられない、われわれ人間にとって、寿命が延びることは苦痛が増長する以外の何者でもないからです。
現に、
2000年以上も前の古代ギリシャの詩人ホメロス作『イリアス』の中で、こんな逸話があります。
ある母親が、“この世的成功をおさめた二人の息子のために、何か助言を?”とヴィーナス神に祈りをした。
そうすると、
その二人の息子が天に召された。
号泣しながら母親はヴィーナス神に抗議したら、
ヴィーナス神はこう答えた。
“人間にとって最も願わしいことは、この世に生まれてこないことであるが、ひとたび生まれてきた者にとって、最も願わしいはできるかぎり早く死ぬことである”
まさに、
生きることは苦痛以外の何者でもなく、死こそが苦痛の唯一の解放者、と神自らが認めているのです。
まさに、
先進社会になればなるほど、寿命は延び、苦痛は増えるわけです。
逆に言えば、
後進社会になればなるほど、寿命は延びない分、苦痛も減るわけです。
そうしますと、
生きるとは苦であり、死は生きる苦からの解放者ということになります。
まさに、
死の真の意義がここにあるのです。
生きるとは苦であり、死は生きる苦からの解放に他ならない。
まさに、
死の真の意義がここにある。
では、
一体いつ、死を好くないものと、われわれ人間は信じ込むようになったのでしょうか?
社会レベルでは、
今から3300年前に、多神教世界から一神教世界に移行した際に、人間の心は二分心から一分心になった時でしょう。
個人レベルでは、
赤ん坊として生まれて、言葉をおぼえはじめた時でしょう。
まさに、
この時こそ、アダムとイブがエデンの園から追放された物語で象徴されている時に他ならないのです。
まさに、
神の言葉を失った時に他ならないのです。
現代風に言えば、
自然社会や純真無垢な人間の子供なら失っていない地球意識を忘却した時に他ならないのです。
まさに、
地球意識を忘却した反対給付として、人類は死の存在を知ったわけです。
だから、
地球意識を忘却した、われわれ人間の大人は、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥ったのです。
地球意識を忘却した反対給付として、人類は死の存在を知った。
だから、
地球意識を忘却した、われわれ人間の大人は、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥った。
逆説的に言えば、
地球意識さえ失わなければ、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る必要はなかったのです。
言い換えれば、
地球意識を失ったから、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥ったのです。
逆に言えば、
地球意識を失うことは、不要善に他ならない証明です。
従って、
死を知ることは、不要善に他ならない証明です。
まさに、
死とは、不要善に他ならない証明です。
ところが、
われわれ人間の大人は、生きる苦と死ぬ苦を同じ四苦の一つと信じ込んできたのです。
まさに、
生きる苦は必要悪であるのに対し、死ぬ苦は苦ではない不要善だったのです。
では、
人生は四苦八苦と仏教が教えるところの、生老病死の四苦は一体何だったのでしょうか?
まさに、
仏教が起こった西暦前5世紀当時の世界は、西洋社会よりも東洋社会の方が先進社会だったゆえ、生きる苦の中に、老いる苦、病気の苦とともに死ぬ苦を、まさに文字通り味噌も糞もいっしょにしたのです。
一方、
当時の西洋社会は後進国だったゆえ、最大の生きる苦は、自然社会に通じる貧乏の苦であって、老いる苦や病気の苦、ましてや、死ぬ苦といった概念はなかった中で、一神教のキリスト教が誕生したのです。
まさに、
多神教にとっての苦は、一神教にとってはしょせん贅沢な悩みに過ぎなかったのです。
言い換えれば、
老いる苦、病気の苦など悩みのうちに入らないのです。
なぜなら、
老いる苦、病気の苦は、しょせん、必要悪に過ぎず、自然社会では必要悪など入り込む隙は一切ないからです。
では、この事実は、一体何を意味しているのでしょうか?
まさに、必要悪など楽ではないことを意味しているのです。
そして、
必要悪の極致に生があるのです。
逆に言えば、
不要善など苦ではないことを意味しているのです。
そして、
不要善の極致に死があるのです。
だから、
老いること、病気になること、そしてそういったことを含め、生きるということは、すべて必要悪に過ぎず、必要悪とは楽ではないだけのことなのです。
一方、
死ぬことは、不要善に他ならず、不要善とは苦ではないのです。
まさに、
不要善とは実在するもので、必要悪とは不要善の不在概念に過ぎないことの証左に他なりません。
まさに、
必要悪と不要善は、表裏一体の一枚コインを成す二元要因に他ならないのです。
まさに、
不要善とは実在するもので、必要悪とは不要善の不在概念に過ぎないことの証左に他ならない。
まさに、
必要悪と不要善は、表裏一体の一枚コインを成す二元要因に他ならない。
そして外してならないのは、
必要悪と不要善は、二律背反するのではなく、補完し合う点にあります。
まさに、
必要悪=不要善に他なりません。
まさに、
死とは実在するもので、生とは死の不在概念に過ぎないことの証左に他ならない。
まさに、
生と死は、表裏一体の一枚コインを成す二元要因に他ならない。
そして外してならないのは、
生と死は、二律背反するのではなく、補完し合う点にあります。
まさに、
生=死に他なりません。
では、この事実は、一体何を示唆しているのでしょうか?
まさに、死というものは未来にあるのではなく、『今、ここ』にある証左に他なりません。
平たく言えば、
死はいつも突然襲ってくる所以(ゆえん)に他なりません。
表現を換えれば、
われわれ人間の大人は、死の存在を知ったその瞬間(とき)から、生きるとは死ぬために生きてゆくことになったのです。
ところが、
われわれ人間の大人の誰ひとり、この現実に気づかずに生きてきたのです。
まさに、
われわれ人間の大人、最大の悲劇がこの点にあるのです。
現に、
死を知った結果、それまでなかった悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生を送る羽目に陥ったのです。
では、
一体何のために、死を知ったのか?
まさに、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に無縁な一生を送るために、死を知ったのです。
まさに、
生きることは必要悪なのに対して、死ぬことが不要善に他ならない証左です。
必要悪は、まさに、文字通り、映像の世界の考え方に他なりません。
一方、
不要善は、まさに、文字通り、実在の世界の在り方に他なりません。
では、文字通りとは?
まさに、
必要悪=映像世界
不要善=実在世界
ということに他なりません。
言い換えれば、
見えることが、実在しないということに他なりません。
だから、必要悪なのです。
一方、見えないことが、実在するということに他なりません。
だから、不要善なのです。
まさに、
人間社会と自然社会が、まったく逆さまであることの証明であり、且つ、自然社会が実在して、人間社会は自然社会の不在概念に過ぎないことの証明です。
まさに、
自然社会にとっては、不要善が当たり前であって、死だけが唯一実在するもので、生きるということは死の不在状態に過ぎず、いつどこでどんなふうにわけもなく死が起こり得る世界に他ならないのです。
一方、
人間社会にとっては、必要悪が当たり前であって、生きることだけが唯一実在するもので、死ぬということは生きることの不在状態に過ぎず、いつどこでどんなふうにわけもなく襲ってくる死に怯えて生きる世界に他ならないのです。
まさに、
死を不要善として捉えている世界(宇宙や自然社会といった正さま(まともな)世界)では、死は好くないことではないのです。
だから、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に無縁な一生を送ることができるのです。
一方、
生を必要悪として捉えている世界(人間社会)では、死は好くないことなのです。
だから、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥るのです。
死を知ったわれわれ人間の大人の人生は、録画されたビデオを観るようなものです。
いまいくらルンルン(幸福)の人生を送っている人でも、死を恐れているかぎりそのルンルン(幸福)は恐怖(不幸)の前触れであって、死と同じように、ある日突然襲ってくることうけあいです。
これは革命的気づきに他ならないのです。
まさに、
死を忌み嫌うことこそ、われわれ人間最大の錯覚だったのです。
"おぎゃ!"と生まれてからの一生で、唯一わかっていることは最期の死だけで、他のことはすべて偶然の出来事に過ぎないのです。
その唯一わかっていることに目を背けて生きている人生が充実するわけがありません。
死を忌避して生きることが、間違いの人生の最初のボタンの掛け違いに他ならなかったのです。
このように、
われわれ人間は二重の錯覚をしたまま生きているのです。
だから、
自然社会の生きものや、われわれ人間でも純真無垢な子供のような、悩みや四苦八苦に無縁な生き方ができなくなったのです。
決してそういう生き方は不可能ではなく、悩みや四苦八苦しながら生きる方が本来おかしいのです。
「自分の死について目覚めよ、日本人(未発刊)」
新 田 論
まさに、2000年からWHO(世界保健機関)は「健康寿命(Healthy life expectancy)」という概念を提唱し、人間としてのQoL(Quality of Life:人生の質)の向上に掲げてから19年目の今、日本国として「人生100年時代構想」として「人づくり革命」と名売っての政策ならば、新田論が語る『宇宙のしくみにそった人間社会』としての位置づけの下で、『死にたいする革命的な指摘』を人間学として国民に教えるのが国策では・・・
新田論が新しい視点から『宇宙のしくみのもとで生きている人間学」として、人間として生きている本質について、熱く語りかけています
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