平和な人間社会が叫ばれて、一体どれほどの時間が過ぎただろう。
残念ながら、未だに、平和な人間社会は実現していない。
それどころか、ますます、戦争を繰り返す人間社会の様相を呈している。
そして、公正な人間社会が叫ばれて、一体どれほどの時間が過ぎただろう。
残念ながら、未だに、公正な人間社会は実現していない。
それどころか、ますます、不条理な人間社会の様相を呈している。
そして、平等な人間社会が叫ばれて、一体どれほどの時間が過ぎただろう。
残念ながら、未だに、平等な人間社会は実現していない。
それどころか、ますます、差別が横行する人間社会の様相を呈している。
まさに、人間とは、本音と建前を使い分ける生きものである証明だ。
まさに、平和という建前を叫びながら、戦争という本音を実行する。
まさに、公正という建前を叫びながら、不条理という本音を実行する。
まさに、平等という建前を叫びながら、差別という本音を実行する。
まさに、差別・不条理・戦争といった本音など、もうたくさんだ!
ましてや、平等・公正・平和といった建前など、もうたくさんだ!
人類とは何か?
果たして、人類は過去からの科学や、宗教や、哲学の教えによって、この先、差別・不条理・戦争と訣別することが出来るのでしょうか・・・。
まさに、21世紀の今を生きる私たち一人ひとりが、知性を有した人間として、謙虚に、本音と建前を使い分けていることに目覚めることが出来るのでしょうか・・・。
物理学者 スティーブン・ホーキングは、彼の著書「ホーキング宇宙を語る」の締め括りで、「今日まで、科学者はずっと、宇宙が何であるかを説明する新しい理論の展開に心を奪われていて、“なぜ”と問うことができないでいる。
一方、“なぜ”と問うことを商売にしている人たち、つまり哲学者は科学理論の進歩についていけないでいる。
十八世紀には、哲学者は科学を含めた人間の知識の全体を自分たちの持ち場と見なし、「宇宙にははじまりがある」か、などといった問題を論じたのだった。
しかし、十九世紀と二十世紀には、科学は哲学者、いや少数の専門家以外のだれにとっても、あまりにも技術的、数学的になりすぎた。
哲学者は探求範囲を大幅に縮小し、今世紀のもっとも有名な哲学者であるヴィトゲンシュタインが、『哲学に残された唯一の任務は言語の分析である』と言うほどになった。
アリストテレスからカントに至る哲学の偉大な伝統からの、これは何という凋落ぶりだろう。
しかし、もしわれわれが完全な理論を発見すれば、その原理の大筋は少数の科学者だけでなく、あらゆる人にもやがて理解可能となるはずだ。
そのときには、われわれすべて-哲学者も、科学者も、ただの人たちも-が、われわれと宇宙が存在しているのは“なぜ”か、という問題の議論に参加できるようになるだろう。」と・・・・、
いったい何が今 “問 題” なのか?
まさに、スティーブン・ホーキングが云うところの、“あらゆる人にもやがて理解可能”な宇宙とは、“静止の暗闇と沈黙と無臭と無味と無触覚の世界”の実在宇宙に他ならないのです。
まさに、彼が云うところの、“あらゆる人にもやがて理解可能”な宇宙とは、“静止の無五感の世界”の実在宇宙に他ならないのです。
まさに、彼が云うところの、“あらゆる人にもやがて理解可能”な宇宙とは、“静止の無私の世界”の実在宇宙に他ならないのです。
まさに、現代科学者は本末転倒している。
つまり、「あまりにも技術的、数学的」とは、過去・現在・未来という水平世界の「あまりにも遠い」ことを、「あまりにも技術的、数学的」と云っているだけで、『今、ここ』という垂直世界の「より高い(深い)」ことに関しては、「あまりにも無知」なのです。
ただそれだけの思い違いです。
21世紀のキーワードは
「より高い(深い)宇宙観(世界観)」です。
まさに、
死の真の意義がここにある。
では、
一体いつ、死を好くないものと、われわれ人間は信じ込むようになったのでしょうか?
社会レベルでは、
今から3,300年前に、多神教世界から一神教世界に移行した際に、人間の心は二分心から一分心になった時でしょう。
個人レベルでは、
赤ん坊として生まれて、言葉をおぼえはじめた時でしょう。
まさに、
この時こそ、アダムとイブがエデンの園から追放された物語で象徴されている時に他ならないのです。
まさに、
神の言葉を失った時に他ならないのです。
現代風に言えば、
自然社会や純真無垢な人間の子供なら失っていない地球意識を忘却した時に他ならないのです。
まさに、
地球意識を忘却した反対給付として、人類は死の存在を知ったわけです。
だから、
地球意識を忘却した、われわれ人間の大人は、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥ったのです。
地球意識を忘却した反対給付として、人類は死の存在を知った。
だから、
地球意識を忘却した、われわれ人間の大人は、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥った。
逆説的に言えば、
地球意識さえ失わなければ、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る必要はなかったのです。
言い換えれば、
地球意識を失ったから、悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥ったのです。
四苦八苦とは仏教語で
四苦八苦の「四苦」とは「生老病死(しょうろうびょうし)」のことで、人間として逃げることのできない必然的な苦しみを指します。また「八苦」とは、生老病死の四苦に「愛別離苦(あいべつりく)」「怨憎会苦(おんぞうえく)」「求不得苦(ぐふとくく)」「五陰盛苦(ごおんじょうく)」の四苦を加えた八つの苦のことです。
後半の四苦の意味は「愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)」「怨み憎む人と出会う苦しみ(怨憎会苦)」「求めるものが得られない苦しみ(求不得苦)」「存在を構成する物質的・精神的五つの要素に執着する苦しみ(五陰盛苦)」で人間として味わう精神的な苦しみのことをいう言葉です。
逆に言えば、
地球意識を失うことは、不要善に他ならない証明です。
従って、
死を知ることは、不要善に他ならない証明です。
まさに、
死とは、不要善に他ならない証明です。
ところが、
われわれ人間の大人は、生きる苦と死ぬ苦を同じ四苦の一つと信じ込んできたのです。
まさに、
生きる苦は必要悪であるのに対し、死ぬ苦は苦ではない不要善だったのです。
では、
人生は四苦八苦と仏教が教えるところの、生老病死の四苦は一体何だったのでしょうか?
まさに、
仏教が起こった西暦前5世紀当時の世界は、西洋社会よりも東洋社会の方が先進社会だったゆえ、生きる苦の中に、老いる苦、病気の苦とともに死ぬ苦を、まさに文字通り味噌も糞もいっしょにしたのです。
一方、
当時の西洋社会は後進国だったゆえ、最大の生きる苦は、自然社会に通じる貧乏の苦であって、老いる苦や病気の苦、ましてや、死ぬ苦といった概念はなかった中で、一神教のキリスト教が誕生したのです。
まさに、
多神教にとっての苦は、一神教にとってはしょせん贅沢な悩みに過ぎなかったのです。
言い換えれば、
老いる苦、病気の苦など悩みのうちに入らないのです。
なぜなら、
老いる苦、病気の苦は、しょせん、必要悪に過ぎず、自然社会では必要悪など入り込む隙は一切ないからです。
では、この事実は、一体何を意味しているのでしょうか?
まさに、必要悪など楽ではないことを意味しているのです。
そして、
必要悪の極致に生があるのです。
逆に言えば、
不要善など苦ではないことを意味しているのです。
そして、
不要善の極致に死があるのです。
だから、
老いること、病気になること、そしてそういったことを含め、生きるということは、すべて必要悪に過ぎず、必要悪とは楽ではないだけのことなのです。
一方、
死ぬことは、不要善に他ならず、不要善とは苦ではないのです。
まさに、
不要善とは実在するもので、必要悪とは不要善の不在概念に過ぎないことの証左に他なりません。
まさに、
必要悪と不要善は、表裏一体の一枚コインを成す二元要因に他ならないのです。
まさに、
不要善とは実在するもので、必要悪とは不要善の不在概念に過ぎないことの証左に他ならない。
まさに、
必要悪と不要善は、表裏一体の一枚コインを成す二元要因に他ならない。
そして外してならないのは、
必要悪と不要善は、二律背反するのではなく、補完し合う点にあります。
まさに、
必要悪=不要善に他なりません。
まさに、
死とは実在するもので、生とは死の不在概念に過ぎないことの証左に他ならない。
まさに、
生と死は、表裏一体の一枚コインを成す二元要因に他ならない。
そして外してならないのは、
生と死は、二律背反するのではなく、補完し合う点にあります。
まさに、
生=死に他なりません。
では、この事実は、一体何を示唆しているのでしょうか?
まさに、死というものは未来にあるのではなく、『今、ここ』にある証左に他なりません。
平たく言えば、
死はいつも突然襲ってくる所以(ゆえん)に他なりません。
表現を換えれば、
われわれ人間の大人は、死の存在を知ったその瞬間(とき)から、生きるとは死ぬために生きてゆくことになったのです。
ところが、
われわれ人間の大人の誰ひとり、この現実に気づかずに生きてきたのです。
まさに、
われわれ人間の大人、最大の悲劇がこの点にあるのです。
現に、
死を知った結果、それまでなかった悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる人生を送る羽目に陥ったのです。
では、
一体人間は何のために、死を知ったのか?
まさに、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に無縁な一生を送るために、死を知ったのです。
まさに、
生きることは必要悪なのに対して、死ぬことが不要善に他ならない証左です。
必要悪は、まさに、文字通り、映像の世界の考え方に他なりません。
一方、
不要善は、まさに、文字通り、実在の世界の在り方に他なりません。
では、文字通りとは?
まさに、
必要悪=映像世界
不要善=実在世界
ということに他なりません。
言い換えれば、
見えることが、実在しないということに他なりません。
だから、必要悪なのです。
一方、見えないことが、実在するということに他なりません。
だから、不要善なのです。
まさに、
人間社会と自然社会が、まったく逆さまであることの証明であり、且つ、自然社会が実在して、人間社会は自然社会の不在概念に過ぎないことの証明です。
まさに、
自然社会にとっては、不要善が当たり前であって、死だけが唯一実在するもので、生きるということは死の不在状態に過ぎず、いつどこでどんなふうにわけもなく死が起こり得る世界に他ならないのです。
一方、
人間社会にとっては、必要悪が当たり前であって、生きることだけが唯一実在するもので、死ぬということは生きることの不在状態に過ぎず、いつどこでどんなふうにわけもなく襲ってくる死に怯えて生きる世界に他ならないのです。
まさに、
死を不要善として捉えている世界(宇宙や自然社会といった正さま(まともな)世界)では、死は好くないことではないのです。
だから、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に無縁な一生を送ることができるのです。
一方、
生を必要悪として捉えている世界(人間社会)では、死は好くないことなのです。
だから、
悩みや四苦八苦、挙句の果ての、死の恐怖に苛まれる一生を送る羽目に陥るのです。
死を知ったわれわれ人間の大人の人生は、録画されたビデオを観るようなものです。
いまいくらルンルン(幸福)の人生を送っている人でも、死を恐れているかぎりそのルンルン(幸福)は恐怖(不幸)の前触れであって、死と同じように、ある日突然襲ってくることうけあいです。
これは革命的気づきに他ならないのです。
まさに、
死を忌み嫌うことこそ、われわれ人間最大の錯覚だったのです。
"おぎゃ!"と生まれてからの一生で、唯一わかっていることは最期の死だけで、他のことはすべて偶然の出来事に過ぎないのです。
その唯一わかっていることに目を背けて生きている人生が充実するわけがありません。
死を忌避して生きることが、間違いの人生の最初のボタンの掛け違いに他ならなかったのです。
このように、
われわれ人間は二重の錯覚をしたまま生きているのです。
だから、
自然社会の生きものや、われわれ人間でも純真無垢な子供のような、悩みや四苦八苦に無縁な生き方ができなくなったのです。
決してそういう生き方は不可能ではなく、悩みや四苦八苦しながら生きる方が本来おかしいのです。
「自分の死について目覚めよ、人間!!」
新田論が新しい視点から『宇宙のしくみのもとで生きている人間学」として、人間として生きている本質について、熱く語りかけています
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